よく、「個人」 はない、とか、「個人」 を手放す、、的なメッセージを聞くと、、
途端に怒り心頭になる場合ってのもこれまでもちょいちょい見かけてきました、、
「個人」 がいないなら、「自分」 は一体何なの!!
生きること自体無意味なだから、いっそのこと死にたいわ!!
的な具合に、、
もちろん、この主張は分からなくもなしで、
「自分」 が頑張って 「自分の人生」 を生きている!!あるいは、必死に模索している!って思っているような人たちに対して、、
ない!ない!ない!!のメッセージはある意味で親切さに欠けるという言い方はできるかもしれませんね、、実際それが、真実を指していたとしてもですね、、
よく、禅で言うところの、、
指差す先の 「月」 を見ずして、「指先」 を見るから故に生じる混乱と、苛立ちといったところとも通じるところはあるかもしれません、、
ですから、メッセージの受け取り手が、より 「月」 を見やすくなるような工夫は発信者としてはあってしかるべきであると思うわけです、、
というわけで、禅を一時期学んでいたハリー的なところでは、、
禅の修行のすべてが、まさに、「個人」 を手放すための各種アプローチで構成されているとも言えるでしょう、、
優先したい 「個人」 を持ち運んだままでは、修行の中では単なる余計な荷物になるだけで、、
様々な 「都合」 や 「恐れ」 を脇に置き、、ただひたすらに、今ここに現れている修行の中、行為の中、出会いの中に溶け去るとき、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
禅の師たちが私たちに見せようとした景色、、あるいは、、彼らが私たちに託そうとした遺産に出会えるとも言えるでしょう、、
道元禅師は、、仏道を学ぶということは、真の自己を知るということであり、
真の自己を知るには、「個人」 を忘れる必要がある、と説いたとされています、、
あるいはまた、どこかで聞いたある禅語に、こんなのもあったのを記憶しています、、
無心にして大道に帰する!!
即ち、、あれこれの 「個人」 が生み出す執着を手放してこそ、、
大いなる (←って実はけっこう苦手な表現、、笑) 道が開けて来る的な、、
そう言えば、、ジョーンさんの本に載っていた先人の言葉でこういうのもあったっけなと、、
「自らの最高傑作を捨て、真の <最高傑作> の中に入り込んで行く」
というわけで、、忘れる、手放す、捨てる、、といったポインターよりも、
個人的に気に入っているのは、、ジョーンさんの 「取り消す」 というポインターです、、
即ち、「都合」 や 「恐れ」 のエネルギーが 「収縮」 を見せ、「個人」 の感覚を強固にしようとしたときは、、
あるいは、そうしているときは、、そのエネルギーがそのように起きている様子に注意を向け、、
そこに確固たる実体性があるかを 「気づき」 と共に実際に調べてみることが大切です、、
これによって、「月」 を覆い隠していた雲が消えていくかのように、、
クリアな瞳で解放した生を生きる術が見出されていくのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ