さて、日常の中で、
早く時間が過ぎてくれればいい、、何だか時間の経過がゆっくりで億劫に感じてしまう、、
といった状況が起こる場面はそれなりに見かける話です、、
日々、、子供たちと関わっていると、そういった様相を見るにつけ、個人的なところでは興味深い観察材料になっていたりもするものです、、笑
というのも、、どうあっても、「今」 しか存在していないにもかからず、
空想上の 「時間」 という観念の中を生きていると 「思っている」 眠った意識を、
いかにして、「今ここ」 のリアリティへ連れ戻すかというのが、、
ある意味で、仕事柄、腕の見せ所といったところでもあるからです、、
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ま、そんな日常の禅師ごっこは置いといて、、笑
冒頭の話に戻りますと、、そのように感じてしまうとき、、何が起きているかというのをもう少し詳しく見てみますと、、
これはまさに、、「今」 に居ながらに、、いつか訪れるだろう 「どこか」 へと目指そうとしている動きにほかならず、、
エネルギー的には、、まったくもって機能不全であると言うほかありません、、
繰り返しになりますが、、私たちが生きられるのは 「今」 以外には在り得ない以上、、
それでも、「時間」 という観念の中を必死に生きようとしまうと、、
特に、、「今」 を否定し、より安心でき、満足や快を感じられる 「いつか」 へ逃れようとする感覚が強い場合は、、
いつまでたっても、望んだ 「いつか」 に近づいているようには見えないために、、
機能不全の様相はますます強まる一方で、、逆に 「苦しみ」 の様相が肥大化しているということが分かり始めるかもしれません、、
というわけで、、「苦しみ」 とは、、「今」 の状況の変化に応じて外側からもたらされるものだというのは実は誤解で、、
本当のところでは、、「今に居る」 ことへの非受容性、、
今とは違って見える 「いつか」 や 「どこか」 へ向かおうとするエネルギーの程度によって比例的に高まるものであるといって良いでしょう、、
ですから、早く時間が過ぎてほしい、、一刻も早くこの場を離れたい、、などとしたエネルギーがわき起こっていることに気づいたときは、、
※このエネルギーを私のブログでは、、自我性から来る 「恐れ」 の防衛的作用であると日々お伝えしています、、
そのまま 「いつか」 や 「どこか」 を信じて、観念の世界に魅了され続ける感覚に流されてしまうのではなく、、
そこに気づきを照らし、、そうした 「誘い」 を断ち切り、、
決してどこにも行こうとはしないこと、、
徹底的に、この場所に留まること、ひたすらにここに取り組むことを実践できるかどうか試してみてください、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
これによりエネルギー的な機能不全、あるいは、不調和や軋轢といった様相は徐々に静まりを見せ、、
真実のエネルギー場との同調に伴って、、あっという間に 「時」 が過ぎ去ったかのように感じることもあるかもしれませんし、、
あるいは、そこにおいてはおそらく、、「いつか」 も 「どこか」 も、
「恐れ」 や 「都合」 の肥大化によって生み出された 「まやかしの次元」 に過ぎなかったのだということに目覚めているかもしれません、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ