「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ114
人間が如何に社会から孤高断絶して暮らし、社会生活を拒否し否定することは可能です。だとしても、「なぜ在るのか」を問うことは、孤高であれ一定水準の理性を獲得している人間には「何かがある」ことを否定することの問いから逃れることは困難であることは容易に導き出されます。一体全体、存在の根拠とされる存在者は有るのか無いのか、寧ろ、「無」ありて、きたりて存在はあるのではないのか。ギリシァ三哲はもとより社会的哲学を除く多くの思想家の頭を悩ましてきた問題です。生活一般では通常「存在と無」に心を悩ます人間はまずいないでしょう。然れども、年齢を経れば誰でも一度や二度は、漠然とはしていても「存在と無」に触れてみるものです。例えば人生絶望の淵に立ったとき、自分を取り巻く全ての重みを解消しようとはするが、頭が鮮明でなく曖昧模糊で解決策が見当たらないとき「神も仏もないものか」と漠然ですが「存在と無」に触れています。反対に人生有頂天で感極まったときには、存在者がいようといま「神や仏はいらない」と「無」に寄り添います。一方は苦からの開放、他の一方は存在者若しくは神仏から受ける倫理的制限からの解放でしょう。此処に幾何学的論理を持ち込んだスピノザに対して終始、冷淡で矮小化したハイデガー、滅多にスピノザには言及しないし、稀に言及する場合であっても、通り一遍の紋切り型といってもよい提示のみ。然し乍ら、そうした事実的な問題から切り離して、ハイデガーの思想内容自体をいわば虚心にしてみるならば、彼を動かしていたらしい根源的直観はスピノザ哲学の思考を模倣している面があり、ハイデガーは自己の思想の独自性を強調するために強いてスピノザには言及しないようにしていた素振りが見え隠れしています。何れにしてもハイデガーの著書「存在と無」の理解には、影響少なからずのスピノザの「エチカ」は欠かせません。
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