「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ136
世界が何ものの根拠を置かない、寧ろ、出(しゅ)っするところをを知らない「無」でもないもの、言い換えれば其れが「虚」です。旧約・新約・コーランの説く神が、「虚」から生じた次第で「神」が生じて「無」が生じ、神は無から世界を創造されたとする創世記なるものはは矛盾そのものです。「虚」から何ものかが生じることが矛盾だからです。「無」があり得るのは「常有」を前提にします。「常有」を前提にしてこそ「無」が生じ、人間精神が思考する世界が創造されたと考えるほうが理に適います。抑々(そもそも)の世界の始原に「無」自体に何らかの要素が組み込まれているのか、組み込まれていれば「無」は、もはや「無」ではなく「無としての存在」は在る位置を占めています。「無」が「存在」の位置を占めるという状況が生じます。観測物理学に云う「無」からの「粒子」の発生です。世界は「虚」でない限りは、実相を伴ないます。何故に世界には一体全体、存在することがあり得るのか、それは、寧ろ、「無」が或る意味、存在することの必然性を問うているのではないか。人間精神が存在の実相を遡及すればする程、限りなく「無」へと近接していき、或る瞬間をもって、世界は「虚」でないことを認識し「無」の深層に思考が及びます。「無」とは空間を意味するものではなく、在るべくして無いもの、空間上の一点其のもの、位置は保有するものの運動や停止には関与しない何ものかです。然し乍ら、此の空間上の空間上の一点、ユークリッド幾何学が云うところの、幅もなし、質量もなし、位置存在のみの存在と思考してみれば如何なものなのでしょう。此の無と有の背景からスピノザの神的存在は矛盾を巧みに回避します。注意すべきは人間が無を「虚」と同一視したとき、即ち、虚無主義に陥ったときには狂気(Insanity)以外に待ち受けるものがなく破滅が待ち構えます。
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