今から100年以上前の1902(明治35)年1月26日(日)に、青森にある厳寒の八甲田山で、陸軍の青森歩兵第5連隊210人中199名が、折からの大暴風雪による寒さと疲労で死亡(凍死が193名)した事件がありました。
雪中行軍の目的は朝鮮半島侵略の為に南下する対ロシア戦に備え、先の日清戦争において、厳寒の清国の遼東半島で約4千人の凍傷患者を出した苦い経験があり、それを防ぐのが行軍の目的でした。因みに行軍は青森と弘前から出発日は違いますが、八甲田の田代ですれ違う日程で2つの連隊が出発していますが、その連隊の違いを簡単に明記します。
◎「陸軍・青森歩兵第5連隊210名」。
・210人中199人が死亡。残った人も重度の凍傷で手足の切断を余儀なくされています。
・土地の者の道案内を断ってしまう。
・連隊本部も同行した為、指揮命令系統が2つになる。本来なら神成大尉が指揮官なのですが、同行者にすぎなかった連隊本部の山口少佐が命令を出したりしたので指揮命令系統が統一されなかった。この山口少佐の判断ミスが仇となり、部隊は八甲田を彷徨う事になり、ほぼ全滅する。
・天候の回復を待たず、むやみに彷徨した。
・宮城や岩手県出身者が大半で雪山に対しての認識不足があった。
◎「陸軍・弘前第31連隊37名」。
・1名の犠牲者も出さず、全員が走破。
・マタギや樵夫(きこり)など雪山に精通した専門家から情報を収集して、かつ土地の者に道案内を頼んだ。
・むやみに彷徨せず、天候の回復を待った。
・青森出身が多く、雪山に対しての知識も備えも、ある程度十分であった。
以上が生死を分けた点と云えます。
萱野茶屋の手前の萱野高原から5月の八甲田山。1月・2月は人を寄せ付けない白い地獄になるようです。僅か3日で部隊は、ほぼ全滅しています。因みに青森歩兵第5連隊210名は1月23日(木)に出発していますが、皮肉にも翌日の1月24日(金)は、津軽地方の人々が恐れる「山の神の日」で、マタギや樵夫(きこり)でさえ、山の神の怒りを恐れて山には近づきませんでした。結果的に山の神の怒りに触れてしまうのですが。(恐らく1年で一番気象条件が悪いのを経験上で分かっていたので、敢えて山の神の日として入らなかったようです)
「訪問日・2016(平成28)年5月23日(月)」
八甲田ロープウェイ山頂駅から見える前嶽(まえだけ)の後ろが遭難現場の田代周辺です。
銅像茶屋の裏にある遭難記念碑。
銅像茶屋の裏にある「雪中行軍遭難の地」。この地で行軍一行は、殆どが遭難して散り散りとなりました。(下段、私。)
銅像茶屋。1月、2月には右側の写真の所まで雪に埋もれ、辺りは白い地獄と化すようです。
仮死状態で、この姿で発見されたそうです。
後藤房之助伍長は何を見つめているのでしょうか、、、、。
馬立場に立つ雪中行軍遭難記念像(後藤伍長の像)。
「後藤房之助伍長発見の地」。
後藤房之助伍長のある馬立場(うまたてば)から少し離れた大滝平あたりで、救援を呼びに行った後藤房之助伍長が仮死状態で立ったまま発見され、後方での遭難が発覚しました。遭難者の遺体の収容は難航して、5月28日まで掛かったそうです。
青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館。後ろは無くなった方々が眠る幸畑陸軍墓地です。
雪山に対しての装備は貧弱そのものでした。
この状態で立ったまま露営して体力が消耗したようです。
連隊本部の随行員にすぎなかった山口少佐の判断ミスが、結果的に部隊が、ほぼ全滅する羽目に陥ります。
幸畑陸軍墓地。八甲田山雪中行軍で犠牲になった方々が安らかに眠っています。私とS君に出来る事は何もありませんが、亡くなれた方々の冥福を祈り墓地を後にしました、、、。
銅像茶屋の裏にある「雪中行軍遭難の地」から見た八甲田連峰。結果的に指揮官の判断ミスと、お粗末な計画で、この世の地獄を見ながら亡くなった訳ですから、兵の中のには成仏できず、今なお、この山中を彷徨い、永遠に終わる事のない行軍をしている兵士がいても何ら不思議ではありません。永遠に、、、。