昨日、帰宅して夕食を準備している時に、
久しぶりにとあるテレビ番組をかけていました。
「マツコ&有吉の怒り新党」
マツコ・デラックスさんと有吉さんの毒舌ともとられるけど意外に正論を言っているトークや夏目さんの冷静なツッコミなど、あの三人の絶妙な掛け合いが何とも言えず、以前はよく見ていました。
ちょうど、仕事から帰って夕食とかぶることが多い時間帯ってのもありますが。
今日は、たいへん僕の琴線に触れるようなコメントがあったので、ちょっと触れておきたいと思います。
トークテーマというか、視聴者のハガキの内容は、
「芸能人の円満離婚」について。
ひとしきりトークが進み、話題は芸能レポーターなどのインタビューについて。
そこで指摘されたのが、
「使う言葉が直接的になっている」
「行間を読んだりする作業ができなくなってきているのでは」
ということ。
それには、SNSなどが普及したことで少ない文字数の中での表現が日常的になったことが影響しているのではないかとの分析も。
なるほど、確かに。
自分の思いや考えを言葉で表現する時、
そのすべてを言語化するわけではない。
だけど、伝わるのはコトバだけだから、
その「言葉」を捉えて人はそのメッセージを受け取る。
・・・「受け取る」というか勝手に「解釈」する。
あるいは、直接面と向かってコトバを発した場合と、
文字だけで伝える場合とでもその伝わり方などは大きく変わる。
それがコトバというメディアを媒介にしたコミュニケーションの
基本なんだけど、だから「誤解」が生まれることもあるわけです。
だから、ボディーランゲージなどのノンバーバルコミュニケーションというものも発達する。
だから、どうせ誤解するならそれは面白く「誤読」をしようと文学などでは「創造的誤読」などということも言われている。
そういうコトバの特性や僕らが日常的にあまり意識的にはならないようなコトバの使い方に注目することは非常に大切なことだと思います。
もともとコトバの使い方が巧みな人はいます。
「もともと」ってのはおかしいかもしれませんが、これまでの育ってきた環境がそうさせているんだろうなという人はいます。
逆に、なんでそういう表現になるかな、と思ってしまう人もいます。
ここで話題となっている「行間を読む」とか「ニュアンス」を感じ取るというのは、これはこれで重要なことではありますが、ここではそれ以上に大切なことを指摘しておきたい。
そもそも、何かをコトバで表現するときに、コトバはそのすべてを表現しきれるわけではないという、ある意味で当たり前のことを今一度自覚したい。
コトバが自分の思いのすべてを過不足なく表現できるものなら、どれほど楽なことでしょう。
「言いたいことはいっぱいあるのに、どう伝えればこの思いが伝わるのか」
多くの人がそうした悩みに一度や二度ぶつかったことがあるのではないでしょうか。
あるいは、自分は正確に伝えられたと思っていたのに、相手はぜんぜん違う受け取り方をしていて、誤解されてしまった、などという経験も多くの人にあるのではないでしょうか。
コトバはそもそも僕らの思いのすべてを表現してくれるものではないのです。
さらに、何とかこうとかひねり出したコトバも、相手が自分の思った通りに理解してくれるとは限らないのです。
でも、だからといってコトバに投げやりになったり、絶望するのは全く違う。
だって僕らはコトバ意外にこれほど有効に自分の思いを誰かに伝える方法を持っていないのだから。
だからこそコトバに注意し、なるべく誤解を生まないように、なるべくその思いを正確に伝えるように努力しないといけないわけです。
そうしたコトバの運用能力とでもいいましょうか、そこに注目されることで、世の中のコミュニケーションによる問題の幾ばくかは解決するのかもしれないとさえ思います。
だから、作文を書いている時などに生徒たちにはよく言うことですが、
「自分が分かればそれで良いという文は絶対に書くな」
どれほど頑張って書いても誤解はされる。
でも、じゃあ自分の思うがままに書けばいいじゃんってことになったら、
もはやあなたの思いは誰にも届かない。
どれほど頑張って書いても誤解はされる。
でも、だからこそギリギリまでコトバをつめる作業をしておかないといけない。
いつか自分が恩師に言われたコトバにも似ている気がします。
「コトバの一つ一つ、文の一つ一つのつながりに神経をめぐらせて、
ギリギリまでコトバを論理をつめていけ」
きっと小中高生で、ここまで文章に「けち」をつけられながら作文を書く人たちもめずらしいのでしょう。
でも、それは絶対に将来の財産になる。
だって、オトナになったら誰も注意してくれないもん。
単に誤解されて面倒くさい方向に流れていっちゃうか、
あっさり却下されておしまい。
損するのはやっぱり自分なのです。
だから、心を鬼にして、今日も生徒たちの文章に「けち」をつけます。
そして、何より、その刃はそのまま自分にも向かっているものだと自覚せねば。