政治教育の「3原則」!? | 作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

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17日に配信されたYahooの意識調査にこのような質問がありました。


「日本の政治教育で大事なことは?」


回答の項目は、次の通りです。

①教員の指導力の向上

②政治的中立性に配慮すること

③効果的なカリキュラムの策定

④政治や選挙についての基本的な理解を深めること

⑤現実に賛否のある具体的な政治課題を扱うこと

⑥家庭や地域などと連携・協力すること

⑦上記にはない



19日現在で、計29000票近くが投票されていますが、
一番票が入っているのが、②(8649票となっています)。

次いで、④、⑤と続いています。


もちろん「現実の政治課題」について、
あるいは、これからの未来の社会を創造する上で、
政治的なマインドを養成するというのが「政治教育」の本義なのでしょう。

ただ、それが学校の授業時間内で実施されるということであれば、
当然、教員の「政治的中立性」というか、
教員の主義主張が有無を言わさずインストールされることがあってはならない。


政治について議論する、学ぶというときには、
現在では、民主主義という根本理念を踏まえておかなければなりません。


その点で、極論、①の「教員の指導力」に集約されるともいえそうです。


教員も一国民、一市民ですから、
当然、その主義主張はあるでしょう。

しかし、個人の主義主張が完全にインストールされてしまうという事態は、
話題が政治ではなくても、現在の世の中ではあってはならないことだと思います。

それはすなわち、民主主義とは対極にあるファシズムにも通じてしまうからです。


その意味で、この記事の読者から寄せられているコメントにもありましたが、
ある特定の団体の主義主張だけが提示される授業はあってはならないことだ。


同ページに関連記事として、リンクが張り付けてあるが、

「“政治教育の先進国”ドイツが打ち立てた『3つの原則』」

も大変参考になる。



ドイツではすでに選挙権年齢が18歳。

ドイツにおける政治教育には以下のような3原則があるという。


①教師の意見が生徒の判断を圧倒してはならない

②政治的論争のある話題は論争があるものとして扱う

③自分の関心・利害に基づいた政治参加能力を獲得させる



というものだ。


シンプルな原則ですから、深く読み込まなくても「当然でしょ」と言いたくなるような内容。


もちろん現実の教室でこうした理想が実現されているかどうかはわかりません。

それは、どんな教育でもそう。


同じ単元の学習をする時間でも、
教師が違えば、違う授業になる。

当然、受講者(生徒)が違えば、また違くなる。

だから、どんな教科にしろ学習にしろ、
その時、その場での「一期一会」的な要素が多分にあるのが授業。


とはいえ、だからこそこうした根本的な考えは、
きちんと整理しておくべきことであります。


何だかんだいっても、やっぱり生徒よりは先生の方が発言力があります。


特に、日本の教育は、昨今でもまだまだ「正解到達型」の学習が横行しています。


そんな中、「正解」を決める、評価をする、成績を決める教師は、やっぱり「権力者」です。


ちょっと自分と考えが異なったとしても、
めんどうなことになっても嫌だし、
その場をやり過ごしてしまおうと思う生徒がいてもおかしくはない。


そういう力学がガンガンに働いている場で、
教師が中立の存在であれるのだろうか。

あるいは、

「先生はこれについてこう思うけど、それは論争があることだからね」

といって、果たして生徒たちは素直に受け取れるのだろうか。


公の学校という場ではありませんが、
児童・生徒たちと関わる場にいるものとして、
よくよく耳にする言葉があります。


「学校の先生が言ってたよ」

「先生が違うって言ってたから違うんでしょ」


以前と比べて教師の立場が弱くなったと聞きますが、
こういう発言を聞くと、なんだかんだと先生の影響は強いじゃん、
と思わされます。



だからこそ、丁寧に指導するべきなんです。



「先生はこれについてこう思うよ。でも別の考えを持つ人もいる」

「そもそもこれが『正解』ってのは究極ないんだよ」

「みんなが議論して『正解』を創るってのが政治だよ」




…って、基本的な話がきちんと通じるように、
教育というものを再考しなければいけないでしょう。



果たしてそれが、日本の教育現場でできるのでしょうか。



日本の生徒は世界的に見ても能力が高いのでしょう。

基本的には勤勉な国民性というアドバンテージがあります。

とはいえ、今はそれがテストの正解を導き出すためだけに活用されています。


空しいことではありますが。



でも、だからこそ、そうした場がきちんと整備され、
身を持って知る機会があれば、
日本人でもそうしたマインドが持てるでしょう。



だからこそ、僕らは単なる「テストのためだけの学習」を批判的にみて、アンチテーゼを投げかけ続けているつもりです。




さらに、忘れてはならないことが1つ。


そうはいっても、そもそも「民主主義」について、
あるいは、誰もが欧米的な論理的思考を持つようになることが、
果たして「善」であるのか、という点。


もちろん、「民主主義」という考えは、
一概に否定すべきものではないでしょう。

しかし、一方で「多数決」などの議決方法などは、
一見正当な手法であるようにも思いますが、
本当にそうなのでしょうか。


弱者の意見や主張をどう扱うべきなのか。


もちろんこれまでは「最大多数の最大幸福」という原則に基づき社会は運営されてきました。


でも、これだけ価値が多様化する現在において、
多数派が果たして多数なのか、という問題もあります。


賛否が拮抗している場合は余計にそうですよね。

どちらに決まったとしては、およそ同じ数反対派がいるという状態。
この状態はどうなのか。




現在主流の考えも、近代というところから地続きと考えたとしても、
たかだかここ200年程度の浅い歴史しかありません。


これを絶対の価値とせず、
より平安な社会を模索するという姿勢は、
どんな立場であれ、現実問題を考えるときであれ、
変わらず不可欠なことなのではないでしょうか。

そういう視点も併せ持っておかなければ、
一つの事象に、選択肢が賛成か反対の二者だけになってしまう。


それでは、思考もその先の創造においても、
非常に貧困な解しか出てこないでしょう。




先の「安保関連法案」議論もそうでしたでしょ。



あんなみっともない議論をすることが、
教育の目標であっていいはずがない。

政治を語るということが、
あんな程度のことであっていいはずがない。



だからこそ、くり返し言います。



早いとこ「テストのための学習」のような矮小化されたイベントからは脱して、きちんと地に足着いた学習をしましょう。


点数の評価ばかりが前面に出る教育を笑顔で交わし、
10年、20年先の未来を描きながら学習を進めましょう。


まぁ実際、そうした基本姿勢がある方は、
目の前の現実対応(テスト対策や入試など)も、
うまくやってのけることが多いんですけどね。


テストに踊らされているな、
成績に振り回されているな、
と少しでも感じる人がいれば、
これを機にちょっと自分の、自分の子どもの学習をふり返ってみてください。




何のために学習しているんだろう。


これをどう受け取れば、自分にとって有意義なものになるのだろう。





ってね。