あの世への架け橋を夢見る。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 田部井淳子さんが、死去とネットのニュースのトップにのっていた。77歳ということだ。登山家で、テレビにも出ていた。田部井さんのように、死とは無縁のように見える人でも、4年前に、がんにかかってしまったら、やはり、どこかで、加齢とともに、あの世に持っていかれるのだと思った。77歳、人生、人にはそれぞれの生きた足跡がある。あたり前の事だが、人生、どこで、エンドになるのかである。田部井さんも、去年の今頃、自分が来年の今頃、あの世へといくとは、考えていない。今年の正月もまた、おなじ。夏には、富士山に東北の高校生といっしょに、上ったと報道されている。それが、最後の登山になったようである。

 

 

 人生は、積み上げるには、大変な努力がいる。しかし、崩れるのは、一瞬である。歳をとってくれば、時間の進み方が早くなってくる。子供の時は、朝から晩まで動いている。学校へいって、あそんで、また、学校からかえっても、ランドセルをほうりなげて、遊びにでかける。そうして、夕暮れになる。家に帰ってきて、腹減った、何かないと、さけぶ。どこの家でも同じ光景である。そうして、ぐったりとして、眠る。そして、次の日がくる。一年は365日、朝から晩まで、密度の高い日の連続である。動き回るから、時間の経過が遅くなるように、感じられる。もちろん、時間の経過はだれでもおなじ。しかし、活発に心身が動いていれば、時間の経過が重たく感じられるのは、当然である。

 

 

 歳をとれば、子供とはちがう、加齢すればするほど、時間の経過は早く感じられる。20歳の人が、感じる時間の進み方と、40歳、60歳、とは、ちがう。歳をとればとるほど、あっという間に、時間が経過して、新たな正月がくる。若い時のように、わくわくする感覚は消える。47歳までなら、人生は、昇る状態だから、希望が、未来にある。来年、もっとよくなるだろう、来年こそ、いい歳にしようという、希望が出てくる。しかし、人生の峠をこえて、未来がどこかで、きえると感じたなら、そこにあるのは、希望ではなく、諦めであり、哀しみである。そうして、だんだんと、体力がおちてきて、自分もいつか死ぬ時がくると感じ始める。だれでもが、70歳をすぎれば、そう感じ始めるはずである。

 

 

 なぜ、我々は、今を生きられるのか、それは、明日があるからである。明日があると希望できるから生きられるのである。もし、明日、ぽっくりいくと、分かったら、今を十全的に生きられる人がいるだろうか。布団にはいったら、もう、明日はさようならと、明日、死刑執行だと宣告された人のように、今晩、寝たら、もう明日の夜はこの世にいないと、わかったら、はたして、ぐっすりと眠れるだろうか。意識がもうろうとして、自分がだれであるのかわからない状態ならいいだろう、意識がしっかりとしていて、明日、死刑が執行されるとわかったら、じたばたしても、どうにもならないとわかっていても、きっと、じたばたするのが、人間である。明日、死刑執行されるかどうか不確定だから、明日に向かって生きられるのである。

 

 

 70歳ぐらいから、人は、あの世の論理を自分に言い聞かせておいたほうがいい、あの世の架け橋をどう掛けていったらいいのか、自問自答したほうがいい。この世は、終わる、そして、そこからあの世が始まる。実際はどうかわからない、しかし、そう思い込ませない限り、最後まで生きていけないはずである。生きている間は、なにもいいことはなかった、だから、あの世で、この世で果たせなかったことを、やろう、そう思わなければ、死ぬその日まで、生きていけない。そう自分に言い聞かせない限り、自信をもって死ぬことなどできない。

 

 

 死刑を受ける人は、最後は、神や仏を受け入れているはずである。そして、神や仏を受け入れて、懺悔しているはずである。神の国、仏の国を信じるはずである。神や仏の存在、あの世の存在を信じるはずである。そうしなければ、死を受け入れることなどできないからである。

 

 

 どのように、あの世への架け橋を構築するか、それは人それぞれである。神や仏を肯定し、あの世の論理を受け入れなければ、今を生きることなど、できなくなるからである。すくなくとも、70歳以降、しっかりと生き抜くために、神や仏が必要になってくる。それは、この世での今を生きるための方便かもしれない。しかし、死んだら、お終いなら、それはそれでいいはずであり、そんななのは、くだらないと、否定しても、その否定自身、意味のないものになる。若者にとっては、目をそむけたくなるような問題である。しかし、あの世の論理が少子高齢化の世界にとっては、必要だと、わかれば、そこに、ビジネスの需要がでてくるのは当然である。あの世をこれから、どう位置づけるか、宗教との絡みもあるが、これは、どうしても、避けては通られない所である。この世に生き続ける人にとっては、それもビジネスの一つであるということを考えておいた方がいい。