目に見えないもの、小池都知事は何に惑わされたのか? | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 昨今の一連の動きは、小池都知事誕生から、生まれた。小池都知事の百合子グリーンは、鮮やかに希望の色として見えていた。小池都知事の笑顔は、何の迷いもなく、当時64歳の年齢にしては、若く情熱的に見えた。安倍首相の周りは、きな臭い醜聞が立ち込めていた。当然に、世論は、反安部に傾いた。稲田前防衛大臣、森友、加計問題、そして、中国、北朝鮮、すべては、一発触発の険悪なムードになっていた。そして、衆議院選挙、蓮舫元代表が、やめなければ、前原前代表が、とぼけた妄想に踊らされなければ、そして、小池都知事が一つの決断を下していたら、違う世の中になっていたかもしれない。しかし、結果的には、すべてが、こうなるようなシナリオができていたかのように、物事は、収まった。見えざる神の手によって、今のような状況になっていった。まるで、目に見えないものの力によって、こうなるように仕込まれていたかのようである。これは、ひとりの力でできるものではない、多くの人の数の力がこのような結末をむかえるように動いたということになる。

 

 

 今が、すこし落ち着いた状況であれば、これが、高速ネットワーク情報社会、市場経済で国境を越えて連結している一人一人の意思、無数にあつまった意思の現れということになる。膨大なN数があつまれば、ひとつの正規分布を形成するという原理にしたがったものということになる。ある意味、膨大な数があつまった数で構成されたひとつの正規分布、それが今のありようである。それがひとつの秩序になる。それに反すれば、それを乱せばどうなるか、排除されたり、破壊されるということになる。皮肉なことだが、小池都知事の排除発言により、最終的には、自分自身が排除されるという結末を迎えそうである。

 

 

 安部首相は、政治家の中では、非常に、バランスを読むのがうまい人だと感じる。その目に見えないものを感じることができるのか、これはやばいと感じたなら、引き返すことができる人かもしれない。自分が出ることでマイナスになるなら、引っ込むことができる。稲田前防衛大臣を切ったのも、あぶないとおもったからである。森友、加計では、上げ足をとられないように、ひたすら逃げた。籠池夫妻が逮捕されて、いまだに塀の中にいるのも、何か理由があるはずである。5年後、10年後、森友問題がどう後始末がつくか、その時になれば、なにかしらの暗黙の取引がなされているのかもしれない。加計でも、学校が開校し物事が動き始めたら、これはもうどうすることもできないだろう。それまでの辛抱と言うのなら、やはり、何か、安部首相の周辺には非常にやばいことがあったのだろうと感じる。だから、何かの力をうけて、いい加減にしなさいと、プレッシャーがかかったような感じがする。だから、それ以降は、常に、言葉だけは、謙虚に、丁寧にということになる。まるで、誰かに聞かせているかのようにである。

 

 

 世の中には、開けてはいけないパンドラの箱のようなものがあって、それを開けようとすると、ひっくり変えるようなものがある。一気になにかをやろうとすると、何かとぶつかって、そして失速する。そんなイメージである。何か、目に見えないものがあって、その秩序を乱そうとすると、逆にやられてしまう感じである。下々にはわからないが、結果からみて、失速する現象をみれば、何かあったのだと感じることができる。政治家でいえば、橋下前大阪市長、稲田前防衛大臣、安倍首相、小池都知事である。勢いがあるときの姿勢と、何かに躓いて、失速した後の姿勢とが変わる。なにか、大きな壁にぶつかって、それを乗り越えようとしたとたん、目に見えない何かが、どっと押し寄せてきて、失速していく、そんなイメージである。

 

 

 希望の党を立ち上げた。前原前代表が、民進党を解党して、希望の党へ合流すると発表し、そして民進党の両議院総会で、満場一致で採択され、世の中は、また違う方向へと進む予感がした。結局、輝いたのはその一瞬である。もし、すべてを飲み込んでいたら、自民党とは逆に、左派から中道保守まで、抱え込んでいたら、ある意味、二大政党で動いたかもしれない。共産党も、その動きに太刀打ちできなかったろう、さらに、現実的なオプションを選択したはずである。選挙制度が、二つのどちらかを選ぶシステムなら、中道保守から右側か、中道保守から左側かしか、残されていないのが現実である。もし、多極化を考え、いろいろな違う考えをあつめて、連立政権を志向するなら、小選挙区から、中選挙区へと変えるべきなのである。

 

 

 小選挙区制で選挙をするなら、答えはひとつしかなかった。排除するどころか、共産党もふくめ、すべて受け入れるしかなかったのである。自民党と公明党には、政策の一致などない、考え方も同じではない。公明党は、創価学会の考えを国政に反映させるための党である。自民党は、あれほど、毛嫌いした公明党と創価学会と連立を組んでいる。なんのためにか、政権与党でいる方がいいからである。なら、共産党もおなじである。政権にはいれば、共産党も公明党とおなじような行動をとる。政策、理念が一致しなければ、仲間として、組めない。それは、詭弁である。仲間として組めるかどうかは、好きか嫌いかという基準でしかないからである。

 

 

 小池都知事が輝いていたのは、やがて、都民ファーストが、大きくなって、日本ファーストになってくれることを、みんなが期待したからである。その神輿にのるように、いろんな言葉をつかい、パフォーマンスをした、それは見事であった。どれだけの器の人かと感嘆した。可能性のまま、すべてを飲み込んで、前にいくべきだったのである。あの排除の論理を持ち出した途端、すべての可能性はひとつの陳腐なエゴに変貌してしまった。可能性が消えた瞬間なのである。可能性があれば、そこに夢や希望が存在する。人はそれにのる。株式投資と同じなのである。可能性があれば、支持率も20-30%はいっただろう、そして国政に小池都知事がでれば、自民党と希望の党は、逆転したはずである。民主党が政権をとった以上のものがでてたであろう。そして、小池都知事が、総理大臣となったかもしれない。もしかしたら、共産党が連立として政権に入るといってきたかもしれない。そうなれば、共産党は、さらに現実的な政党になったかもしれない。

 

 

 小池都知事は、一体、何を恐れたのか、何か大きな目に見えないものがあることを、感じたのか、一気にブレーキを踏んでしまった。小池都知事、65歳、あれほど、若々しく見えていたのが、今は、65歳のおばちゃん顔になってしまった。化粧で繕っていても、その疲労感は、隠せない。前にむかって前進しようとしていたとき、小池都知事は、確かに輝いていた。年齢よりはずっと若く見えていた。ほんとうに、もったいないことをした。もう一歩、がんばって、懐を大きくみせて、頑張り通せば、そして、すべてを飲み込んで、一大集団の親方として、大きな神輿で、旗を振りかざしていれば、まちがいなく、総理大臣になれたはずである。日本が変わったかどうかはわからないが、すくなくとも、韓国も中国も、さらにいえば、北朝鮮も、日本に対しての態度を変えたかもしれない。