多情多感な若者よ、吟遊詩人を目指しなさい。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 最近、通販でやすい旅行用のエレキギターを購入した。ギターのボディ部がなく、ほぼ直方体のネック部だけで構成されている。縦長の箱みたいなものだ。エレキギターだから、ちゃんと、ジャックをさせるポートはついている。ただし、アンプがないから、音量やエフェクトはかからない。純粋にエレキギターのニッケル弦を弾いて、それを一定の電気信号にかえるというもの、しかし、弦をビックでつま弾けば、音はなる。ちゃんと物理の法則にはしたがっている。ボディがないから、ギタースタンドには立てられないから、付属についていたケースにしまうか、ちょっとしたスペースに置くかだ、全長は約80cmしかないから、かさばらないのは、確かだ。ちゃんと、ギターストラップをつけるところがあるから、身体に固定して、安定化させることはできる。意外としっかりとしていて、多少、弾きづらいが、コツさえわかってくると、それなりには弾けるようになる。それに、数千円で、これもやすく、スピーカー付、しかも、USBから充電ができる電池式のギターアンプが売っている。それに、マイクロSDカードがさしこめて、そこで、録音、再生ができる優れものである。それに、ドラムマシーンやDTMでつくったドラムパッキング等の演奏をいれて、そのギターアンプから流すことができる。同時にエレキをそこから流せば、100Vの電源不要で数時間は、どこでも、だれでも、演奏することができる。もちろん、そこで詩をうたえば、現代版の長唄である。まさしく、吟遊詩人である。そのギターアンプ、ズボンのバンドにも装着できるぐらいの大きさだから、歩いて演奏もできる、昔のギターの流しと同じである。幕末で活躍した志士たちが、三味線で、長唄をうたい、人生の無常を心に響かせたのと同じ感覚である。それの現代版でもある。

 

 

 私よりは、上の年齢の人だが、たぶん、団塊の世代から上の人たちだろう、昭和40年代の学生運動の人たちである。フォークの世代でもある。髪の毛を伸ばし、ジーンズをはいて、世の中の矛盾、社会の矛盾、人生の矛盾を、若い学生の情熱でもって、世間に訴えた時代であった。自分の思いを詩にたくし、それを、ガリ版印刷ですって、配っていた時代である、そして、フォークギターでコードをならし、その思いを歌に託した世代である。私はそんな世代ではないが、まだ、その残響が残っていた時代でもあった。パソコンもなければ携帯もない、カセットもなければ、ウォークマンもない時代である。スマホ、コンビニなど夢の夢、ラインやメールで自由に思いを告げられるなど、あり得なかった。自分の思いを告げるのは、手紙か、電話でしかない。彼女に自分の思いを告げるのも、彼女と話をするのも、勇気がいる時代であった。また、自由に、曲などつくるツールもない、外に持ち出して、一緒に、歌えるツールなどは、アコーデオンか、ギターでしかなかった。まさしく、いまでいう、アナログの世界そのものだった。何かを書くにも、今のようにパソコンで簡単に修正できるものではない。鉛筆と消しゴムの世界、ノートに、鉛筆で線を引いて、それをのばして、加筆していく。

 

 

 人生は、あっけなく幕を閉じるもの、今はそう思っている。その中でも、青春は、一時の春の宵の千金に値する時期、だれでも、人生に悩み、恋愛に胸を熱くし、友と夢をかたる時である。未熟でも、一生懸命、純粋に、自分と向き合う、どう生きていったらいいのか、何をしたらいいのか、自分とは一体なんなのか、だれでも、自我が形成し、自己防御ができる前に、考えるものである。どんな人でも、半熟の卵の時期はあるものである。多情多感な年頃、いきがったり、人に突っかかったりする。それは自分を作り上げるための反抗期でもある。外部とぶつかって、そこで、相互作用を起こし、そして、傷ついて、自我の角がとれて、社会の中で生きていける自分を作り上げていく。

 

 

 学生時代がおわり、社会にでれば、あとは、定年、そして、人生の出口、終末まで一直線である、それに耐えられるだけの自分を、30歳ぐらいまでに、作り上げる。自己形成である。そこからは、もう、慣性がはたらく。重要なのは、その30歳ぐらいになるまでの半熟期の中で、どれだけ、自分を磨いたか、どれだけ、悩み、どれだけ苦しみ、どれだけ、笑い、どれだけ泣いたか、その情感の深さこそが、40歳以降の人生のメリハリに効いてくる。ぐっと、どの分野でも頭角が現れるのは、そういう人なのである。学歴や職歴ではない、最終的に、人から慕われる人とは、その青春時代に、自分の情感を深めたかどうか、自分の内部にあるものと、どれだけ対峙して、自分を見つめてきたかなのである。人生の末期には、その情感こそがその人の言動ににじみ出てくるものなのである。

 

 

 今は、だれでもがスマートフォンをもっている。SNSの時代である。何事も基本は言葉である。写真もいい、動画もいい、しかし、自己啓発という意味では、やはり言葉、言葉というよりも、詩なのである。詩は、絵画であり、音楽でもある。詩に、リズムをもたせ、絵画的なイメージを持たせる。俳句でもいい、短歌でも、川柳でもいい、そして、自分の情感を散文詩として、綴るのである。たぶん、簡単に描けるものではない。そうして、リズムをつけるのである。必ず定型詩的なものになる。リズムは定型の反復が基本だからである。そうして、楽器をならい、詩をうたう。昔なら、三味線をならい、それをつまびき、長唄をうたう。むかしなら、フォークソングだろう、そして、今なら、エレキギターなのだろう。

 

 

 自分の言葉を自分のメロディで自分が奏でた音に合わせて自分が歌う。それこそが、最大の自己啓発であり、自己創造性であるはずである。基本は、自分の言葉なのである。他人の言葉は、他人の言葉であり、自分の心ではない。メロディをつくれても意味がない、楽器が弾けるのでも意味がない。詩を歌えるのでも意味がない。重要なのは、自分の言葉なのである。そこからスタートしなければ、どんな創造性も育たない。詩を書けない、アーチストは、アーチストではない、詩をかけない技術者や研究者も創造者にはなれない。詩をかけない営業マンも管理者も創造的な経営者にはなれない。もちろん、詩をかけるかけないというのは、比喩であり、詩的な人かどうかという意味である、詩を書かない人でも世の中には、詩人はたくさんいるのと同じである。

 

 

 30歳をすぎたら、人生、あっという間に、40歳、50歳、そして、還暦をむかえ、勤め人であれば、定年である。すぐそこには、人生の出口が見えるはずである。あっという間に、人生という旅の終点である。ふたたびはない、もう一度というのはない。終わったら、ここまでである。来世を期待するのはいいが、それは、この世ではない。この世は無常である。だから、風情をもって、吟遊詩人的に生きて、そして、死んでいくのがいい。だから、若者よ、詩を書きなさい。自分の思いを詩に託しなさい。今なら、スマホを用いて、ツイッターで、風景の画像とともに、詩をツイートしていったらいい。