スーパーナチュラル(高次元の)の気配にきづくことが災難を避ける方法。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 人生は、一度切り、起きてしまったものは、どうすることもできない。起きてしまったことを、なしにしてねとは、言えない。日馬富士も、魔が差したのだろう、そんなところに行かなければ、貴ノ岩に電話がかかってこなかったならば、また、座る席が違っていたならば、暴行などおきなかったかもしれない。しかし、仮に、暴行が起きてしまっても、もし、貴ノ岩の親方が、貴乃花親方でなかったら、示談が成立して、こんなに大きな問題になることもなかったかもしれない。そうであれば、日馬富士も横綱として、相撲を取っていたかもしれない。しかし、こういうふうに、起きてしまった以上、どうすることもできない。その因果は、日馬富士が受けとめることしかできない。病気に関しても、それを生む要因は何かあったのだろうが、だれも、好き好んで病気になろうとは思わない。まして、がんにかかろうとはだれも思わない。しかし、助かるガンもあれば、星野監督のように、すい臓がんで亡くなる人もいる。スポーツをして、体力を維持していても、亡くなる人は、亡くなるし、助かる人は、助かる。何かしらの原因や要因、それに対する対処があったかもわからないが、それが、この世で生きている当人には、わからない。わからないから、命を落とすのである。結局、この世をこえた、この世では見えない論理によって、死という結末を迎えるということになる。

 

 

 人は、どんなにもがいても、どんなにがんばっても、あるところまでくれば、アウトになる。永久に生きることはできない。それが、DNAに刷り込まれた指令なのかもしれないが、それも、わからない。この世がなんでうまれたのか、この宇宙がどうしてこうなっているのかわからない以上、人間がなぜうまれ、なぜ、死んでいくのか、その理由、目的もわからないことになる。つまり、人間は、自分より次元の高いもの、次元の高い因果に対して、どうすることもできない存在なのである。自分より次元の高いもの、それが、スーパーナチュラル性ということになる。別な言葉でいえば、神様の世界ということである。

 

 

 ありさんの世界からみたら、子供は恐怖である。コンクリートの上を、あるいていても、突然子供があらわれ、踏まれることもある。こどもには、命に対する罪悪感がうすいので、平気で、踏み潰すだろう。踏まれたありさんは、とんだ災難である。ありさんからみれば、人間こそ、ばけものであり、たたりである。いつどこで、子供がでてきて、踏みつけられるかわからない。一生懸命つくったありの巣に、水攻めをしかけることもある。ありさんからみたら、人間は制御不能な高次元の世界にいるものということになる。ありさんからみたら、人間の存在がスーパーナチュラルな存在ということになる。

 

 

 ありさんは、人間を視覚化できないだろう、ありさんは、人間をなにか不気味な存在としか認識していない。ただ、わかるのは、気配である。踏みつけられるかもしれないという気配に対して、防御するだけである。わたしは、ありさんをみつけたら、踏まないようにしているが、もし、ありさんが、歩いていて、私が、ありさんの存在にきづくことなく、歩いていたら、しらない間に、踏みつけているかもしれない。しかし、それは、ありさんにとっては、死活問題である。それとおなじ関係に、高次元の世界の存在と私たち人間とがある。ありさんにとって、人間は制御できない。それとおなじように、私たち、人間も、高次元の世界の存在にたいして、制御などできない。子供がありさんをふみつけるのとおなじように、高次元の存在のものが、私たちを踏みつけることもあるだろう。そうなったら、どうにもならないからである。

 

 

 それは、ある意味、災難である。我々が自分で制御できるものなら、それから逃げることはできる。しかし、制御できないものなら、どうすることもできない。災難は、いつなんどき、襲い掛かるかわからない。地震もそうだし、津波もそうだし、事件もそうだし、事故もそういうことである。どんなに気を使っても、病気になるときはなる。天変地異はどうすることもできないし、どんなにがんばっても、最後は命尽きて、この世から消える。それはどうにもならない。この宇宙が、ビックバーンで、突然できたということであれば、それは、高次元の世界から、生まれ落ちたということになる。もちろん、その高次元の世界もまた、もっと高次元の世界からうまれたということになる。そういう論理をつきつめていくと、では、最初は、一体なにということになる。そうなると、無からうまれたということにならざるをえない。では、その無はどこからとなると、それもまた、無からということになる。

 

 

 ありさんにとって、制御不能な人間の行動を予知することは不可能である。ありさんにとって、唯一できる防御は、人間の気配を察することしかできない。それを察して、逃げることしかできない。人間もまたおなじであろう、高次元のスーパーナチュラルな存在を認識して、その因果の動き、その気配を感じるとることが、災難を避ける唯一な方法だと思う。

 

 

 人は、神仏の前で、拝む。目を閉じ、祈る。祈ることで、スーパーナチュラルなものとの共鳴を試みる、この世をはなれた、この世の論理を超えた世界、この世からの制御がきかない世界に、身を預けようとする。それが祈りという行為である。神様の世界に身を預けようとする行為である。そうすることで、その世界と協調しようとする、それによって、その気配を感じることができるかもしれない。もちろん、それでどうなるかわからない。しかし、それによって、危険を察しすることができるかもしれない。もし、その災難がこの世で制御できないものなら、それを避けられる方法は、唯一、その気配を感じとることしかできない。それも、無意識的な感覚でしかとらえられない。虫の知らせということである。虫の知らせで、災難を避けた人がいる。大抵、高次元の世界、スーパーナチュラルなものに対して、共感を持っている人が多い。

 

 

 人生、どんな災難がおそってくるかわからない。同じ事故にあっても、奇跡的に助かるひともいれば、運悪く亡くなる人もいる。助かった人にきくと、虫の知らせで、その席をえらんだということになる。隣の席の人がなくなり、その席は助かる。生死をわけたのは、偶然である。その偶然をどうして選んだのかといえば、虫の知らせということになる。非論理的だが、人間の存在自身、不確定なら、人間の考えも、何が論理的か何が非論理的かなどということ自体が、無意味なことになる。