【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =004=

2017-08-11 06:08:54 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆ 始まりと終わり・・・・・・  =2/6= ◇◆

 世の中には訥弁の人だっている。 また、とつとつとよくわからない話し方をする人でも、後でテープを起こしてみると、いいよどんでいる部分が飛んで意外に話の筋道が通っていることだってある。 私は編集者という仕事柄、ふつうの口下手には驚かないつもりでいた。  しかし植村は、度外れていた。 言葉がほんとうに出てこないのだった。 当人自身、そのことに困惑して、ウー、ウーと唸った。一節ごとに、「あのう」「このう」「そのう」「今の」を連発した。 言葉よりも手ぶり身ぶりが先に立ち、それでも言葉が出ないとなると、ほんとうに身をよじった。

 私は覚悟を決めた。存分に時間をかけよう。 そのうちに、植村のほうで少しずつでも話すことに馴れてくるかもしれない。そして、1日3時間ずつ、3日がかりで話を聞いた。  話の後先が入り乱れ、場所もあちこちに飛んだ。 それでもノートをとりつづけ、テープをまわしつづけたのは、彼の言葉にならない言葉の向こう側に、輝くばかりの貴重な体験が仄見えたからだった。 私は、「あのう」「このう」と、唸り声と、大汗を取り除いて、そんなに長くはない植村の聞き書きをまとめた。「文藝春秋」68年4月号に「無一文の一千日世界探検」というタイトルで、その記事は載った。

 それが、植村直己との出会いである。

 取材で一度つきあった人物と、ずっと接触しつづけるとは限らない。 しかし植村直己とは「無一文の一千日世界探検」が掲載された後も、つきあいが途絶えなかった。 急速に親しくなっていったわけでもないが、ゆっくりと時間をかけてつきあいが深まり、互いに気心が知れるようになっていった。 少なくとも私はそう感じていた。

 たとえば1969年の初夏、日本山岳会のエベレスト遠征隊の偵察隊員となった彼は、ネパールへ出発する前に訪ねてきてくれた。  この年、彼は二度ほど帰国し、最後は越冬隊員としてネパールに残った。 越冬したのは標高3800メートルのシェルパの村、クムジュンである。 植村はここで翌70年の本隊遠征のために、屈強なシェルパの確保、氷河のクレバスに設置する丸太の確保などの仕事をした。

 しかし、越冬のため再び日本を出て行く前に彼がしてくれた話に、私は心惹かれた。 シェルパの村で現地の人びとと一緒に生活する楽しさ。 その楽しさに溺れないように、毎日トレーニングして、しっかり高度順化をすること。 彼はポツリポツリとそんなことを語ったのだが、彼は体調を整えて頂上に立つ意志をひそかに固めていたのである。 私は彼が出国してからそのことに気づき、またネパールからもらった手紙からもその気持を察した。

=補講・資料=

シェルパ : シェルパ(Sherpa)は、ネパールの少数民族のひとつ。 人口は約15万5千人で、ネパール総人口約2950万人の0.5%を占める。 主な居住地は、エベレスト(サガルマタ、チョモランマ)南麓に面したネパール東部サガルマタ県ソンクルブ郡クンブ地方(エベレスト地方)で、他にインドダージリンシッキムブータンチベットにも住む。

シェルパの居住地は、世界的な観光地であり、多くの一般観光客を相手に、1年を通してホテルなどの観光業が一大産業になっている。 また、選ばれたごく少数のシェルパによるヒマラヤ登山支援も世界的に知られる。

シェルパの祖先はその名が示すようにもともとはチベット東部地域に居住していたが、17世紀から18世紀にその地を離れ、南に横たわるヒマラヤ山脈を越えて、ネパールに移住してきたとされる。 この地は寒冷な高地であり本格的な農業は難しく、19世紀までは主に放牧や他民族との交易で生活していた。

20世紀に入り外国人のヒマラヤ登山が始まると、シェルパは高地に順応した身体を買われて荷物運び(ポーター)として雇われるようになった。 その後、登山技術を磨いた彼らは案内人(ガイド)としても雇われるようになり、20世紀後半以降活発になったヒマラヤ登山では、彼ら無しではヒマラヤ登山は成立しないと言われるほど重要な存在となっている。 過去においては、登山隊内のシェルパのリーダーはサーダと呼ばれ、遠征してきた諸外国の登山隊員もその意見を尊重していたが、1990年代以降、商業ベースの公募隊の登山が活発になると、お客さんと化した登山家側から消耗品扱いされるようになった。

2013年4月、シェルパと欧州の登山家がエベレスト登山中に口論、暴力沙汰となる事件が発生すると、シェルパ側から地位向上や遭難時の補償を求める声が高まり、2014年4月、シェルパが13人死亡、3人が行方不明となる雪崩災害を契機に頂点に達した。 この年、多くの登山隊がシェルパの離反などを理由に登山の継続を断念。 シェルパ側が、多少なりとも発言権を確保した結末となった。 その後、ネパール観光省は、2014年9月以降の事故時の補償拡充策として、死亡時の保険金が1万ドルから1万5,000ドルに、医療保険金を3,000ドルから4,000ドルに引き上げている。

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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