【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =005=

2017-08-13 06:20:11 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ 始まりと終わり・・・・・・  =3/6= ◇◆

エベレスト山麓の村でひとり越冬して、目標に対して心身の準備をする。 彼はそんなふうにはっきり宣言したわけではなかったけれど、黙々とそれを実行した。 考えてみると、現地の人びとに寄り添うように暮らして、その土地のことを体で覚えるというのは、植村がこれ以後にもとった方法であり、これ以前にもたとえばアマゾン河の筏下りのときもこの方法を用いた。 植村の独自性はすでにこの時代でも見ることができたのだった。

 日本山岳会エベレスト登山隊の登攀隊長は明治大学山岳部の大先輩、大塚博美である。 大塚は後輩である植村にクムジュンで越冬させた周到な人物だが、植村を頂上アタックの切り札と考えていたふしがある。  70年5月21日、植村直己は松浦輝夫隊員とともに世界最高峰の頂上に立った。 日本人として初めてのことだった。

 ほどなく帰国した植村は、突然という感じで北米最高峰マッキンリーに単独で登りに行きたい、といった。 そして休む間もなくという感じで、7月30日、アラスカに向けて羽田を出発した。 アラスカ州政府が単独登山は許可しないというのを、ねばり強く説得して山に向うことができた。 8月26日、マッキンリー山の単独登頂に成功。 これで植村は世界五大陸の最高峰登頂者になった。 世界で初めての達成である。

 植村は明らさまにそうしたことを揚言したのではなかったが、彼なりに記録を狙い、それを着実に達成していった。 誰も表彰してはくれなかったが、彼は心の中でひそかにそれを自分の勲章としていたはずである。

 さて、次は何を目標とするのか。 そんなことが少し気になりはじめたとき、植村から電話があった。 ちょっと、聞いてもらいたいことがあるんです。 いいですよ、会いましょう。 今度はこっちから出かけて行きます。 ということになって、私は植村がアルバイトをしている建築会社の飯場へ行ってみた。 70年の9月末頃である。

 京王線の仙川駅で下り、歩いて10分もかからない場所に彼が寝泊りしている飯場があった。 10畳ほどの、家具が一つもないガランと広い部屋に、畳だけは敷かれていた。 彼が一人でその部屋を占拠しているのかどうかは聞き逃したが、明るい秋の日の昼下がりで、他に人の気配がなかった。

 私は駅前の店で買ってきた菓子パンとコーヒー牛乳を畳の上に置いた。 日本初のエベレスト登頂者は、腹が減っていたのだろうか、クリームパンとアンパンとチョココロネをじつにうまそうに平らげた。 私も食欲だけは人に引けをとらない。 短い言葉をかけあいながら、たちまちのうちに二人で菓子パンを平らげた。 コーヒー牛乳を飲み終えると、植村は部屋の隅に置いてあった大きなキスリングをごそごそ開けて、一枚のたたんだ紙を取り出してきた。

「南極の地図です」と彼はいい、畳の上にそれを広げた。 白い部分がやたら目につく、というより他にほとんど記号もないような地図だった。 何をいいたいのか、私は一瞬不審に思いながら、白い地図に視線を落とした。 そこで植村は、この南極大陸を単独で横断するのが自分の次の目標だ、と語りはじめた。

=補講・資料=

ロンブク氷河(Rongbuk Glacier)はチベットの南、ヒマラヤ山脈、エベレストのふもとにある氷河。 東ロンブク氷河と西ロンブク氷河が合流してロンブク氷河を形成している。 氷河は山すそを北へ流れて、ロンブク谷へと続いている。 1920年代のエベレスト遠征隊が拠点としたことで知られる。 ロンブク僧院はロンブク谷の北端にあり僧侶たちが生活していたが、文化大革命時に破壊されている。ロンブク氷河の水源はエベレストである。

エベレスト遠征隊やトレッキングの人々はロンブク氷河を経由して東ロンブク氷河の上にあるベースキャンプに向かう。 北側からの登頂を目指す遠征隊はここからノース・コルを経て北東稜をあがっていく。 イギリスのジョージ・マロリーが1921年に第一次遠征隊の一員として初めてエベレストを訪れた際、ロンブク谷とロンブク氷河をまわって登頂ルートを検討している。

1924年第3次英国遠征隊のマロリーは、6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第六キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。 2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。 なお、近年彼の遺体が発見された。

1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。 この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だった。 遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰(8749m)を制したが酸素不足で撤退した。 後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、マロリー以来の宿願を果たした。 日本山岳会エベレスト遠征隊は1970年5月11日、松浦輝夫植村直己が日本人として初めて登頂に成功した。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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