遥か「国後」、時間と距離を超えて。 その10(最終) | モグおじさん、ライブの窓景色

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2015年7月31日(金曜日)~8月3日(月曜日)

 

自由訪問で国後島へ行き、この記事を書き始めてから1年近く経過してしまいました。

のんびりと書くつもりではいましたが、のんびりしすぎですね。

 

前回の記事で国後島の乳呑路(ちのみのち)、父親が住んでいた場所を訪ねて一通りの日程が終了しました。

最後にもう一度、北方四島の位置関係、国後島の地図を示します。

 

(※上図はhttp://homepage3.nifty.com/kitanotakarajima/knsr,top.html よりお借りしました。)

 

北海道からとても近い距離にある国後島です。

 

乳呑路(ちのみのち)の訪問を終えて、北方四島交流事業船「えとぴりか」は古釜布(ふるかまっぷ)沖へ移動します。

 

 

天候がよく、古釜布(ふるかまっぷ)の街の景色もよく見えました。

 

そして、古釜布沖で一泊します。

ロシアが管理する区域から抜け出て根室港へ帰るための手続きが必要で、それは翌日のことになります。

日付は、2015年8月2日です。

 

心地よい風を感じ、波に揺られながら国後島の景色を目に焼き付けます。

日が暮れていきます。

 

 

北海道もそうですが、厳しい気候の地域、霧がかかることが多く、こんな穏やかな姿を見せてくれることは一年を通してそれほど多くないと思います。

そんな最適な気候の時に国後島を訪問できて良かったと思います。

 

陽が沈んでいきます。

 

 

歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島、かつてそこに日本人が暮らしていて、日本人の集落があり、日本人の社会が存在したことは紛れもない事実です。

戦争という悲しい出来事があって、北方四島での日本人の暮らしが全て奪われてしまいました。

 

島を脱出し北海道へ渡るのも大変な道のりだったようですし、北海道での新しい生活も簡単なことではなかったと思います。

 

晴れていると肉眼でも見ることのできる国後島。

こんなすぐ手の届きそうな距離にある国後島。

今はこの短い距離を簡単には超えられません。

 

こうして、元居住者という限られた人たちが、限られた時間に、本来は必要とすることがない手続きを経てやっとたどり着くことができた場所は、かつての景色が一変した場所になっています。

 

国後島の外れにある場所は自然が手つかずで残されていますが、かつて日本人が生活した証は朽ち果て、記憶の糸をたぐることも困難になっています。

70年という時間を超えてたどり着いた場所、戦後生まれの私には賑やかだった当時の様子を想像する手がかりさえも見つけることはできませんでした。

 

それでも、私の父親を含め元居住者の方達にとっては生まれ育った故郷であることに変わりはありません。

暮らしのあった場所に立ち、周囲の景色に記憶を重ね合わせ、時間を戻してあの頃を思い出す。

時が戻って会話が弾んでいくのは、かつてそこに元居住者の方達が存在していたことの証だと思います。

 

ロシアと政治的な解決が実現しないと、この時間と距離を超えることはできません。

いい結果が生まれるといいのですが、そのための時間も多く必要とするこかと思います。

 

「えとぴりか」での最後の夕食は解団式を兼ねて料理とお酒が用意されました。

 

翌日には根室港に入港し、それぞれいつもの暮らしへと帰って行きます。

帰る場所は今を暮らしている所、その場所へ戻ることに安堵感を得るのは70年の時の経過によるものなのかと思います。

戻りたい場所は、戻れる環境を与えてくれないのが現実だと思います。

 

いい解決方法はあるのでしょうか。

ロシアにも日本にも新しい発想で、元居住者にも現在の居住者にも利益になる道を作っていただきたいと願います。

 

夜が明けて、霧に包まれた朝を迎えました。

 

 

 

朝食を終えロシア側の出域手続きを済ませて「えとぴりか」は根室港へ出発します。

 

到着が12時を過ぎ昼食も用意してもらいました。

 

 

根室港で出迎えを受け無事下船しました。

 

 

のんびりと時間をかけて書いてきた国後島自由訪問の記事です。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

もし、お時間がありましたら最初から読んでいただけるとうれしく思います。

 

 

 

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