ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

映画から時代を見る:「ブレードランナー 2049」 美しくも無残な結果

2018-01-16 19:55:01 | 映画批評

 映画から時代を見る:「ブレードランナー 2049」 美しくも無残な結果

 

相当に金をつぎ込んだ作品のようだが、これは失敗作である。

  

映像美的には決して駄作とは言えないだろうが、3時間とだらだら長いわりには説明不足なところがありすぎである。

  

霧のかかった荒涼とした風景で、さも哲学的な深みがあるかのようなつくりだが、オリジナルを超えるようなメッセージ性が乏しい。まるで装丁と挿絵だけが立派な本のようだ。中身が薄く、軽いのだ。オリジナルへの消極的なオマージュに終わっている。

  

 

興行的にも、映画芸術的にも、映画史上有数の失敗作として記憶されるであろう。

 

ハリソンフォードはオリジナルの 「ブレードランナー」 のイメージと名声を守るためにもヘタに出演しない方がよかったのではなかろうか?観ていてちょっと哀れに感じたのはわたしだけであろうか?

 

 

さて、のっけからバッサリと斬り捨てたが、具体的に “失敗作である理由” を挙げていこう。

 

いうまでもないが、この記事は“ネタバレ”の映画評である。これから当の映画を観る予定の人は、そのつもりでお読み頂きたい。

 

 

ウォレス社の旧型レプリカント(バイオロボット)の女性が子供を産んだということなのだが、「It was a miracle. 奇跡だった」 の一言である。「impossible! ありえない!」の一言なのである。観客の皆さんはこれで納得しているのであろうかと観客席で疑問に思った。

 

 

 

「実はそのレプリカントだけに特別に卵巣や子宮といった生殖器官が作り込まれていた」 とでも言ってくれれば、まだわかる。それならそれで、さらなる “突っ込み” が止めどなく出てくるだろう。しかし、それを予想してかそんな説明には一切踏み込まない。 

  

そもそも単なる労働力として製造されたはずのレプリカントに、生殖器官を作り込む理由はないだろう。トヨタのプリウスが子供のプリウスを産んだら、それなりの説明が必要ではなかろうか? 「奇跡だった」 ではすまないだろう。

ロボットでも同じはずだ。しかし、「奇跡だった」 「ありえない」 というだけで物語は進んでいくのだ。この “最初の一撃” によってこの続編は展開していくのだが、なんとも脆弱な前提ではなかろうか? 

 

 

 

ロボットがロボットを産むということはあってはならない、ということで2049年のロサンジェルス市警が動き出す。

 

主人公の K は、“リコール” のレプリカントの回収・処分が仕事の“ブレードランナー”である。そして、彼自身は人間ではなく、レプリカントなのである。これはオリジナルのブレードランナー(ハリソンフォード)とは違っている点で、しかも最初から明らかにされている。しかし、これはどうやらストーリーの展開の過程で、「 K は本当は人間なのでは?」 と思わせるための伏線なのだ。

  

しかし、主人公に “K” という名前をつけるのは、ポストモダンの流行 で、明らかにカフカの「城」の主人公の “K” からきている。「そんなことはない、ただの偶然だ」 とは言わせない。この名前を使えば、観客を “自動的に” “カフカ的世界” に引き込める、という実に安直な意図がここにはある。

 

“圧倒的な権力体制、ビッグブラザー的監視体制下における非力な個人” の代名詞が “K” なのである。  

そして、2017年作のこの高額予算の鳴り物入りの映画の主人公も “K” なのである。小説ではなく、映画といういポップカルチャーなら許されると思う人もいることだろう。21世紀になってもこんな手口を使っていることに正直言って呆れた。はっきり言って、この段階でイヤな予感がしたのだが、それは見事に的中した。 

 

 

“ブレードランナー”の K がロサンジェルス市警の上司の女性署長に問い詰められて、追跡していたはずの、レプリカントから生まれた子供を命令通り “処分” しましたと嘘の報告する。そして、証拠を求められることもなく、“処分” の詳細を聞かれるでもなく、その報告はそのまま受け入れられる

おいおい、待ってくれ!遺体そのものも無し、遺体の証拠写真も無しでも、2049年のアメリカの警察は口だけの“死亡報告” を事実として受けとるのか?何の証拠もなくても、捜査官の言葉、それもレプリカントがそう言ったというだけで “事実” として記録されるのか?まったく現実感がないと言える。観客はバカにされていないだろうか?たしかに小学生の子供なら疑問に思わないだろう。あなたはどうだ?

 

 

ロサンジェルス市警の女性署長が警察署内で、訪問客のレプリカントの女にやすやすと刺殺されてしまう。殺される前に割れたグラスで手をズタズタにされても声を上げないのは、この署長もレプリカントだったと言いたいのだろうか?

  

この「ブレードランナーの続編」 では、どうも “人間と思われていたのが実はレプリカントだった” という誰もが思いつくトリックを濫用している印象がある。オリジナル映画から35年も経って続編を作るとなると、視点を変えるためにそういったトリックを使いたくなるのはわからないことはないが、あまりにも安直で見え透いてはいないであろうか?

 

 

どうして署長を殺した犯人の女性レプリカントは誰にも捕まることなく警察署を出て来れるのだ?しかも全然騒ぎにもならないのはなぜだ?2049年には警官殺しは大した問題ではなくなっているのか? ロサンジェルス市警の署長が実際はレプリカントだったから、テレビのニュースにも新聞記事にもならないのか?

いくらなんでも “詰め” が甘すぎやしないだろうか?それとも、あなたは、そんな “突っ込み” は意地悪すぎると言うだろうか?わたしの “常識” は映画では通用しないのであろうか?

  

 

 

「“ハリソンフォード”さんにはここから出演して頂きますね」 といったふうに、まるで  “真打登場”  と言わんばかりに終盤で担ぎ出されてくる。

 

 

そもそも K はいったいどうやって“初代ブレードランナー” を探し当てたんだ? K は、まるで“アポ”でも取ってあるかのように廃墟化した豪華ホテルの階段を上って行くのだ。

 

 

ついに姿を現した “ハリソンフォード”は 30年以上もずっと一人で潜んでいたという設定のようだ。顔もろくに知らない娘(自分とレプリカントの女性とのあいだに生まれた子供)の身の安全のために?ただただその娘のために身を隠し、廃墟化した豪華ホテルにこもって30年間、ウィスキーを飲みながら過ごしていただとお?バカ言っちゃいけない!リアリティがまったくない。“取ってつけたような話” とはこのことだ。

 また、ブレードランナー新旧同士のわざとらしい取っ組み合いにどれだけ必然性があるのかはなはだ疑問である。

  

レプリカントの反乱集団が K に近づき、使命感を吹き込むところが実に滑稽である。

 

虐げられた憐れなロボットたちが、邪悪な人間に対して力を合わせて反乱を企むという “ロボットの階級闘争” というステレオタイプのエピソードを織り込んでいるところが実に情けない。2017年作の続編なのに、20世紀半ばの発想を超えられないのだ。

 

K がけっきょく “ご主人様である人間たち” のために献身的な活躍をするという、あまりにも20世紀的で古典的なロボット像に、観ている側はほとほと脱力してしまう。

 

 前半で K は自分の記憶が移植されたものか本物かをチェックしてもらうためにレプリカントへの記憶移植の専門家の女性研究者を訪れる。しかし、終盤になって、その女性が、実は K がずっと探していたレプリカントから生まれたレプリカント第一号そのものだったことが明らかになってくるのだ。

観客としては 「なんたる奇遇!なるほどー、世間は狭いなあ!」 と感心するほかはない。こういった “ご都合主義なストーリー構成” や、すでに見てきたような “詰めの甘さ” などが積み重なって、作品の完成度を著しく引き下げている。

 

 

自分たちの仲間が人間のように子供を産んだということで、それならば自分たちレプリカントは当然 “人間扱い” してもらえるはずだと、レプリカント反乱集団が勢いづくという展開だ。

しかし、いくらレプリカントから生まれたって、レプリカントはレプリカントだろ。いくら 「奇跡」 でも、人間とは違うだろ。生殖が可能ならば、人間の心を持っているということになるのか? じゃあ、ハエはどうなのだ? 生命と精神はイコールか? 子供だましのすり替えである。

 

  

 

最後は、「父と娘の再会というヒューマン(人間)ドラマ」 のために “1台のレプリカント” が健気(けなげ)に犠牲になって、めでたしめでたしとなる。“分(ぶん)をわきまえた立派な最期” である。

しかし、元祖ブレードランナー(ハリソンフォード)がレプリカントであった可能性も暗示されてきているので、「レプリカントの親子愛の物語」 であった可能性もあるという、“閉じていない物語” で終わらせている公算が大である。 

 

それが 今回の脚本の “捻(ひね)り” だとしたら、実に安直で薄っぺらな作品ではないか? 「そして、みんなロボットだった」 という、実に見え透いた伏線を用意しているようである。「ブレードランナー 3」 か? 

 

 

この映画では、けっきょく人間とロボットとの関係を、ただの “主人と奴隷” “支配階級と奴隷階級” という関係として見ているだけなのだ。「ブレードランナー」 の原作はフィリップ・K・ディックのSF小説 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 であるが、1968年発表であり、なんと半世紀前である。“共産主義思想” や “階級闘争史観” もまだ現役でリアリティがあった時代である。

その当時の、半世紀前のロボット像(被支配階級) を、そのまま50年後の2017年に忠実にというか、ただボンヤリそのまま引き継いでいるだけなのだ。 

 

50年前の原作出版当時に、そして35年前の「ブレードランナー」公開当時に、スマホはあったか?人工知能(AI)はあったか?産業用ロボットはあったか?IOT はあったか?現実の状況がとっくにSF(科学空想小説)の世界を越えてしまっているという事実から目をそらしてはいないか?提起すべき大きな問題が目の前にあるのに、前世紀のオリジナル作品を “素晴らしいCG” で念入りになぞることに終始しているだけなのである。 この続編の監督も脚本家もいかに “ボンクラ” かがわかろうというものだ。

   

若い世代が 「ブレードランナー 2049」 に新鮮味を感じず、映画館に足を向けなかったため、興行的に大赤字に終わったのも理の当然である。「人間には心があるけれど、ロボットさんたちには心がなくて可哀そう」 といった20世紀の幼稚なステレオタイプのままでは、スマホ、人工知能、IOT、産業用ロボットが当たり前の世代にはもはやアピールしなくて当たり前である。今の若い世代はスマホやAIに浸った生活に実は一抹の疑問を抱いているのだ。その感性にまったく応えていないのだ。

つまり、けっきょくただの人間中心主義から一歩も出ていないのだ。人間が常に “ご主人様” “支配階級” だと思っているのである。おいおい、この50年間は何だったのだ?この映画は20世紀のままじゃないか!

主人公の K が、ハリソンフォード演ずる元祖ブレードランナーを救出するために、大活躍する。しかし、洪水の中でのアクションシーンになる必然性が乏しく、観客は違和感が払しょくできないまま観続ける羽目になる。2049年の未来都市、ロサンジェルスという設定で、なんで水の中での死闘にならなきゃならないのか?

 

前宣伝のわりには、メッセージ、問題提起としては非常に希薄で、新鮮味がないのだ。

けっきょく、ストーリーは20世紀に出尽くした陳腐なエピソードの寄せ集めで、総体としては、それらが映像美、CGの技術美、音楽でごまかされている印象が拭(ぬぐ)えない。

 

オリジナルの 「ブレードランナー」 が1982年に提示したアジア的雑踏の未来都市像は、20世紀後期にあっては実に先見的で画期的であった。名作である。監督リドリー・スコットの代表作と言える。

 

公開当時はスピルバーグの 「ET」 に食われて目立たなかったが、その後じわじわと評価は高まった。

 

 

しかし、21世紀に満を持して公開されたその続編は、莫大な予算をかけてオリジナルをなぞっているだけなのだ。今後 「じわじわと」 評価が高まる可能性はほとんどないと今から言っておこう。CGの技術水準は上がる一方なので、今回のこの続編程度の映像美など最近では特に珍しいものではなくなっている。

 

誰が見ても相当金をかけているのがわかるから、うっかり低評価にはできない気にさせられるであろう。先入観にとらわれずにずけずけ言う人間は少ないかもしれない。

  

 

ましてや、伝説的な “不朽の名作” の35年の時を経ての、“満を持しての続編” であるから、ヘタなことを言うと、“映画通” のオタクからは 「お前はわかってない!」 と御叱りを受けてしまいそうである。

 

なので、リップサービスで、そこそこ褒めておけばいいだろうということで、「観ておいて損はない」 などと言う人がいるにちがいない。はっきり言って、「観ておいて損はない」 程度の作品は、「観なくても損はない」 どころか、 むしろ 「観ると金と時間の損」 なのだ。

  

高額予算のハリウッド映画としては、興行的には大赤字の大失敗だそうだ。その原因を 「哲学的なテーマが大衆的には受けないからだ」 と説明する批評家がけっこういるようだ。これはマニア特有の実に皮相な思い違いである。

大衆の感性を見くびってはいけない。斬新な問題提起、前例のない切り口、ユニークな設定などの片鱗があれば、必ず反応する人々はいるものだ。

 

 

 

この映画の失敗の原因は、オリジナルの 「ブレードランナー」 にあまりにも敬意を表しすぎて、21世紀の新しい視点でのロボット観を提示することができなかったところにある。

 

古いロボット観をそのまま引き継いでいるために、今日リアルタイムで世界に広がりつつあるAI(人工知能)とロボットによる人間社会の激変という焦眉の現実を反映し損ねているのだ。

“人間とロボットの関係” は、もはや単なる “主人と奴隷の関係” には収まらなくなっているのだ。むしろ逆転している可能性すらあるのに、半世紀前と変わらないままの “古色蒼然たるロボット観” に安住しているのが致命的と言える。

 

 

いくら “続編がむずかしい作品” でも、オリジナルを尊重して多額の予算をかければそこそこの収益と評価が得られるはずだ、という甘い計算の上に作られた映画であった疑いがある。興行的な安易な目論見に沿った優等生レベルのシナリオが、美しくも無残な結果に終わったと言える。

 

多少の 映像美に免じて星3つ。 ★★★☆☆  

         ・・・ ちょっと甘かったか。

 

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-01-27 12:00:21
ロボット刑事だしね。

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