2017年7月7日金曜日

論語(8);史記孔子世家 第十七 -(vii)-

衛を去った孔子はさすらって鄭(テイ)へ行き、さらに陳にいたります。このころ呉が越王句践(コウセン)を会稽で破っています。孔子は陳に三年暮らしますが、当時の陳は晋、楚、呉の侵略を受けていました。
この事態に対して孔子はなすすべもなく、魯に帰ろうかといいます。陳を去り、蒲(ホ)を通ります。この時たまたま公叔氏が蒲に拠って衛に背きます。そして蒲の人は孔子をとどめました。弟子の公良孺(コウリョウジュ)というものがあり、すさまじく闘い、結局蒲の人は衛にさえ行かなければ出してやる、と言います。孔子はそうすると約束して出してもらいます。
ところが孔子は衛へ行ってしまいます。弟子の子貢が約束に背いてよろしいのですか?と聞くと、
「要盟也,神不聽」
すなわち、強要された盟いだから神は聞き入れていない、と言います。そういう理屈もあろうか、とも思ったりもしますが、これでは苦し紛れに約束をしてしたことを、自分の勝手な判断で約束を破る口実にも見えますね。

しかし衛の霊公は孔子が来たと聞いて、喜んで出迎えます。孔子にはそれだけの人徳と名声があるのでしょう。
霊公は孔子に蒲を伐ってよいか聞きます。孔子はよろしい、と言います。その理由として(この部分を読んだだけではなぜだかわかりませんが)蒲の男子は衛の為に死のうという志があり、婦人は西河の地にたてこもろうとのぞんで、(衛に背いている)公叔に従おうとは思っていない、と言います。恰も孔子が蒲に悪意を持って、あそこは攻めて構わない、と言っているように見えます。

霊公は結局孔子を重く用いることはありませんでした。孔子は自分の抱負、能力に自信があったので、用いられない衛を見捨てます。

ここで仏肸(ヒッキツ)なる者が晋の中牟(チュウボウ)の長官になります。
この時、晋の卿である趙簡子が晋公を引き込んで范氏、中行氏(いずれも晋の卿)を攻め、中牟を撃ちます。この時仏肸は孔子を招聘します。
子路がこれに反対します。子路によれば仏肸は中牟を率いて晋に背いているのだそうです。
しかしその直前には仏肸が晋に背いたとは書いてありません。趙簡子が中牟を攻撃したとだけ書いてあるのです。

孔子は仏肸が晋に背いたことを認めて、それでも反論します。
“至堅のものはいくら磨いても薄くならないというではないか。至白のものはいくら黒土の中で染めても黒くならないというではないか。”
と言います。志が堅固なら悪には染まらないということでしょうか?しかし現に仏肸が悪をなしているならばこれを何らかの形で補佐すれば悪に加担することになると思うのですが
さらにつづけて
“私は苦い瓜ではない。どうして一か所にぶら下がって、食用にならないまま捨てておかれてよいだろうか?”
と言います。

彼は仕官して腕を揮いたかったのでしょう。しかしどうも相手選ばずで処世が下手という印象がぬぐえません。





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