2017年10月8日日曜日

論語(14); -処世の心掛け(iii)-

公冶長第五の2に
「子謂南容,「邦有道,不廢;邦無道,免於刑戮。」以其兄之子妻之。」
とあります。
“孔子が南容の人物を評して「国に道のあるときはきっと用いられ、道がない時に刑死することはない。」と言って、兄の娘を嫁にやった。”
南容は、先進第十一の6において「三復白圭」していたから、即ち白圭の詩“白き玉のきずはなお磨くべし。言葉のきずはつくろいもならず。”の句を何度も繰り返していたから、兄の子をめあわせた、とあります。南容は言葉を慎しむ人間であったのです。
だからよく治まる世では重厚な人として用いられ、無道な人が権力を握っても人から怨まれることがないから、そう簡単に死刑にはならない、と孔子に判断された訳です。
慎重な言動が尊ばれるのはここでも勧められています。宮仕えで簡単に命を落とす危険がある時代ですから道徳的であるほかに、無駄に命を落とさないための知恵でもあるように思われます。

さらに公冶長第五の5に
或曰:雍也,仁而不佞。」子曰:「焉用佞?禦人以口給,屢憎於人。不知其仁,焉用佞?」
とあります。
“ある人が雍は仁者だが弁才がないと評した。孔子が「どうして弁がたつ必要があろうか。口達者で人にまくしたてれば人に憎まれがちなものだ。彼が仁者かどうかは知らないが、どうして弁が立つ必要があろう。”
とあります。これはよく言えば佞人を嫌ったということでしょうが、口が達者ということは人に憎まれ、陥れられる元をつくるかも知れないのです。用心深く振る舞えという意味も込められているのではないでしょうか。

泰伯第八の4
「動容貌,斯遠暴慢矣;正顏色,斯近信矣;出辭氣,斯遠鄙倍矣。」
という記述があります。
わが身の振る舞いである容貌を動かすにあたっては、荘重にして礼にかなえば他人の加える粗暴わがままから遠ざかることができる。顔つきに誠意をあらわして礼を失わないと人から欺かれないことになる。言葉遣いが礼から外れなければ、いやしい道理に背いた人の言葉を遠ざけることができる。
上記の解釈は古註で、新註では、全部の主体は自分で、荘重にすれば粗暴でなくなる、顔つきに誠意あれば、誠実に近づく、のように取ります。
しかし、論語の説く方向性からいえば、礼を尽くし、人から無用な侮りを受けず、人から無用の恨み、憎しみをかわない、ということですから、古註の方がしっくりします。

これらのような言説はこの後の方にもさらにあるのですが、そうでもない教えもあります。

公冶長第五の21
「子曰、甯武子邦有道則知,邦無道則愚。其知可及也,其愚不可及也。」
とあります。
(衛の) 甯武子(ネイブシ)は国に道が行われていれば知恵者の働きを表した。国に道の行われない時は馬鹿者のように見えた。智者ぶりは真似ができるが、馬鹿者ぶりは真似ができない。“
甯武子は暗愚である成公をよく助けて地位を守るようにしています。よってここで馬鹿者のように振る舞うというのは、韜晦して災難に会わないようにする、というのではなく、一身の危急不利を顧みず、愚者のごとくして責任を果たしたとのことです。それでもついに彼は害に会わなかったのです。
そういうことができるなら、その方が口を噤んで身を引いてしまうよりずっとよいでしょう。身を引くのは悪を見逃すのですから。とは言え、手を出してもどうにもならず、結果はわが身を害しただけで悪は除けず、というのはもっと惨めなので、どこまでできるかの明察力次第なのでしょうか。

しかし論語の勧める身の処し方は、概ね徒に敵を作って害にあっては徳を広げることもできないからよく身を慎む、ということだと思います。





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