今回と次回の記事も、13日・15日の記事に引き続き、3月に書いた記事を再掲載します。
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僕たち人間は、ご飯を食べるという行為は自分の力でできますが、食べてしまった後は体のもっているいろんな働きにすべてお任せするしかありません。
自分で考えて胃から消化液を出せるわけでもありませんし、腸のぜん動運動を起こせるわけでもありません。
また、食べた食物を栄養素に分解し、分解した栄養素を血液によって全身に行き渡らせるということも、自分の頭で考えてできるものではないのです。
さらに、呼吸だって意識してもできますが、それはほんのわずかな時間に限られたことであって、僕らは1日のほとんどの時間を、体の自然な働きにお任せして呼吸をしているのです(そうでなければ、夜寝ている時に僕らは全員死んでしまいます)。
もっと言えば、心臓だって自分の意志で動かすことはできないのですし、そういう意味では、僕らにとって一番身近なものである自分の肉体でさえ、実は僕らが自由にコントロールすることはできないものなのです。
歩いたり、走ったり、テレビを見たり、音楽を聴いたりするなど、自分がしたいと思えばできることもありますが、それは割り合いからすればほんのわずかであって、その他のほとんどの肉体の働きは僕らの自由にはならないのです。
そう考えると面白いですよね。
自分の体なのに、自分の自由にはできないのですから。
しかし、じゃあいったい、これは誰の体なんでしょう。
自分の頭で考えているこの自分こそが自分だという考え方をしている人にとっては、自分の肉体のほとんどは自分のものではなく、天のものとか、神さまのものということになるんじゃないでしょうか。
なぜって、自分の意志で自由にならないにも拘らず、ちゃんとうまく働いてくれているんですからね。
さて、この記事でもう1つ言いたいのは、僕ら人間を生かしてくれている大自然の働きです。
例えば、僕らが食べる大根とかニンジンとか玉ねぎなどは、誰が育てているんでしょう。
まぁ、それは農家の人たちと言ってもいいですが、でも農家の人たちは畑を耕したり、種をまいたり、水や肥料をやることはできますが、そもそも種自体は彼らの力ではつくれませんし、また種を発芽させたり、そこから大根やニンジンや玉ねぎになるまで大きくしたりすることもできないのです。
それができるのは、種そのものや水や肥料や土や太陽のもつ力なのですね。
それらの自然の力がなかったら、いくら農家の人たちが頑張っても、1本の大根やニンジンもできないんですよね。
ということは、僕らが食べる食料もやはり、僕らがつくっているというより自然の力が、言い換えれば人知を超えた神さまの力がつくっているということになるんじゃないでしょうか。
以上のことを考えると、人間というのは、本当に無力な存在だと思うのです。
自分の肉体も、そのほとんどは自分の自由にできないのですし、食べる物だって、自然の力がなければまったく口にすることができないわけですから。
でも、一見するとこれらは悲しい事実に思われるかもしれませんが、このように僕ら人間の命というのは、根本的にはそのほとんどが、人知を超えた大きな力に支えられていると気づくことは、逆に途方もない安心を僕らに与えてくれると思うのです。
頭の中だけでゴチャゴチャ考えている時は、自分の命は自分が一生懸命頑張らなければ維持できないと思っていたのに、視野を広げてよく見れば、実は人間の命というのは、人間の力を超えるもっと巨大な力によって強力に支えられていることがわかるのですから。
それがわかれば、いったい今まで何を心配していたんだろうと心底ホッとできると思うのです。
そして、そういう人知を超えた力に自分のすべてをお任せする生き方こそが、本当の自分に目覚めた人の生き方なんですよね。
必死にガムシャラに頑張って、何かを成し遂げるのもいいですが、それに疲れたら、そういう狭い世界を飛び出して、大自然とか地球とか天とかを視野に入れた広い世界に生きるのがいいと思います。
小さな自我に基づいて生きる自分の無力さをとことん思い知った方が、むしろとんでもなく広くて自由な世界に生きることができるということなんですね。
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