Fable Enables 75 | ユークリッド空間の音

Fable Enables 75

 色々なことが一度に頭の中に雪崩れ込み、俺はそれを捌くのに精一杯だった。理解できたとは言わない。ただ、ミズキの言うことを額面どおりに受け止めることに徹した。
 真実か虚構かの判断がつきかねる部分があったとしても。
 それから事を理解する段階に這入り、俺はしばらく黙っていた。ミズキは要領を得ているらしく、こちらも黙ってレモンティーを飲んでいる。
「――人命を救おうとしたタッさんの行為を間違った使命と言い切る君の気持ちは今ひとつわからない」
 俺が呟くと、ミズキはストローを銜えたまま、上目遣いでこちらを見た。
「主観ではもっと色々と思うことがある。ただ今触れた一件があるだけで、俺は君を信頼していいのかどうか迷う。迷っていたいと思う」
 軽佻な発言は憚られるところだが、俺には珍しく感情を抑えることができなかった。
「大きな体系を保つために多少の犠牲は必要ですよね」
「犠牲ね。誰の視点から見た誰のための犠牲なんだろうか」
「十三億ほどの人間の住まう地球とそれを取り巻く環境から見た何十何百億にも及ぶ命のための犠牲です」
「その保証は」
「カケルさんが壊した世界を『体験』済みのはずです」
「その事態がまた訪れると?」
「世界の意志から向けられた刺客が来るかもしれません。あるいはあなた方が作り上げてきたトンネルを通じて、神話の中の存在でしかなかった幻獣がやって来て跋扈するかもしれません。当然ユキヤさんたちを抹殺する動きが出るでしょう。そのことで他の人間や生き物の命が奪われるかもしれません。事が大きくなる前に、ユキヤさんが自分から自身の存在を消していただきたいのです」
 こちらの返事を待つことなく、ミズキはすっと席を立った。テーブルの上にはさり気なく五百円――レモンティー代金――を置き、そのままゆるりと出口へ向かう。
「場所はおわかりですね。音木町と香足町のあいだにある山が崩れた箇所。そこに言わば『次元の断裂』があります。ユキヤさんがそこをくぐれば、その存在を消すことができます。向かう先はどの次元にも属さない無。痛みや苦しみはありません。七人がみな元あるべき場所へと還っていくことを願って止みません」
 カラン――という乾いたドアベルが店内に谺する。その虚無的な響きとともに、ミズキはドアの向こうに姿を消した。
「……」
 しばらく俺は無言だった。何を考えるでもなく。
 次に我に返ったときには、俺は藤真駅近くの土手の上を歩いていた。喫茶店での精算のことは憶えていない。
 夕陽を移す川面を見下ろし、俺は呟いた。
「消えて下さい――って言われてもな」

 

 


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