本気の夢 大間のマグロか、薪ストーブのあるリビングか。 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

本気の夢 大間のマグロか、薪ストーブのあるリビングか。

pごきげんさまです。

断捨離のやましたひでこです。



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大間のマグロか、薪ストーブのあるリビングか。


 

 さてさて、何のことかと訝る読者もおいでになることだろう。今回の記事は、私の個人的なエピソードのご披露から始めることを、どうかご容赦いただければ幸いにて。

 

 2年前に亡くなった母は、「いっぺんでいいから大間のマグロを食べたい、それが夢だ」とよく言っていた。その言葉は、私が結婚して実家を出る頃にも聞いた覚えがあるから、かれこれ40年間近くは実現しなかった夢となる。いえ、最終的には、私の夫が母にプレゼントして、その夢は実現したのであるけれど。

 

 たしかに、大間の本マグロ、母の希望した大トロはたいへん高価な代物であるには違いなく。けれど、夢というにはあまりにささやかで、残念ながら鬼娘であった私は取り合わなかった。なぜなら、本気の夢であるならば思い切って貯金を叩けば済むことで、かなりの貯金を持っていた母がそうしようとしない長年の夢など、結局のところ、ただのゴタクに過ぎないと考えていたからだ。

 

 問題解決志向の私にしてみれば、夢とは何かしらの行動を起こして実現に向けて走り出すものという理解。だから、貯金をおろし、電話一本かけて取り寄せる手間さえかければ難なく実現する夢を、なぜ、こうまでして抱え込み続けるのか、その心理メカニズムを解明することの方に興味が湧いた。

 

 さて、母が自分の夢の実現にどんな制限をかけていたか、私なりの推測と考察はできた。けれど、今思うことはこれに尽きる。母の夢は、母の本当の夢は、自分の希望を叶えてくれる「優しい孝行娘」を持つこと。それだったのだと思う。だから、どんなに大間産の本マグロを食べたくても、それを自分で買ったのでは意味がない。娘が自分に買ってくれなくてはならなかったのだ。

 

 母の期待は娘であって、娘の私は母の期待通りの反応対応をしなくてはいけない。そして、その母の無意識無自覚な私への期待と要求に、私自身もまた無意識無自覚な母への反発で終始したことになる。傍で、それを敏感に感じとった夫のとりなしで「大間マグロ悶着」は一応決着を見るも、それは表面に浮き出た小さな泡(あぶく)が一つ消えたに過ぎない。まったく、母と私は厄介な母娘関係であったことを、認めなくてはいけない。

 

 ところで、この私も不用意に「夢」という言葉を使ったことがある。ニューヨーク郊外、エーカー単位の広大な敷地にある日本人企業家の邸宅に招かれたときのこと。この男性企業家氏は断捨離の真摯な実践者であり、それが縁となり自宅まで招待してくださった。私は、氏の広いリビングで赤々と燃える薪の暖炉を前にしてこう言った。「薪が燃えるのは素敵な光景ですね、私、薪ストーブがある家に住むのが夢なのです」。

 

 そして、私のこの言葉に氏は一言。「やましたさん、それが夢なら、それを実現すればいいだけのことですね」。

 

 私は、ハッとして、それから一気に恥ずかしくなった。確かにその通りだ。母の大間のマグロをあげつらっていた私が母と同じことをしている。私は、夢だと言いつつ、薪ストーブの家づくりを始めるどころか、考えることさえしていなかったのだから。

 

 つまり、私の薪ストーブの家は夢ではなくただの憧れ。そんなほんわかした憧れを夢だと言えば、青年時代、単身でニューヨークに乗り込み、辛苦を味わいながら夢であった事業を成功させた氏にたしなめられるのは当然のこと。

 

 そういえば、取材で関わった、とある女性ダンシャリアンもこんな夢を私に語った。「わたし動物好きだから、将来はドッグランを作って仕事を始めるのが夢なんです」と。

 

 案の定、それは本当の夢ではなかった。彼女は、夫との関係に齟齬を感じ、何かしらの仕事をして、専業主婦という今の立場から逃げ出したいと思っていただけのこと。ドッグラン建設の夢は、そのすり替えでしかなかったのです。

 

 「夢」という言葉で、自分を誤魔化す私たち。

 「夢」という言葉で、自分を摩耶化してしまう私たち。

 

 「夢」という言葉にはご用心ということですね。

 

 

 どうぞ、夢については、こちらのブログ記事もご参照を。


 ◆『夢は叶わない』

 

 

yahoo!ニュース Japan やましたひでこ 2017/08/26

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamashitahideko/20170826-00074948/