捨てる自由、やめる自由、その放棄の行方 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

捨てる自由、やめる自由、その放棄の行方

yahoo!ニュース JAPAN やましたひでこ

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamashitahideko/20170923-00076084/

 

 

 

 おかしなことに、私たちは、自分が泳いでいる「溜め池」で、その溜め池の批判を繰り返す。その溜め池がそんなに嫌なら、さっさと別の溜め池に行けばいいものを。

 

 さて、冒頭からわけのわからない話で失礼を。この溜め池は、私たちが関わる様々なコミュニティの例えとして理解していただければと思う。

 

 育児で関わるママ友の会

 マンションの自治会

 PTA保護者会 etc.

 

 例えば、ある地域に住み暮らすことによって接触を避けることが難しい、つまり、物理的に移動が伴う場合は、溜め池を変えるという選択はハードルが高くなることは確か。

 

 けれど、ネットでつながっているだけのコミュニティならば、それは容易なはず。自分の意思でクリックすれば済むだけのこと。ところが、ことはそう簡単には運ばないのが、私たち人間の面白いところ。

 

 近頃の、友達申請や「いいね!」のやり取りに疲れて果てて、Facebookをやめていく人も増えている……といった記事を見ると、そうか、疲れ果てるまでやめる決断ができなかったのか、疲れ切って初めてやめることができたのかと、なんだか、気の毒な気持ちさえもが湧いてくる。

 

 そう、もっともらしいFacebook利用のルール、まことしやかなマナーが利用者の内から提示されると、それに従わないといけないような気持ちになるのだろう。けれど、そのルールやマナーに従う自分が、やがて従わされているような気持ちとなり、その不自由な思いがやがて怒りに変わり、なんだかんだと批判を始めるようになる。 

 

 思えば、Facebookも世界につながっているようで、実はそんなことはなく、大小様々な溜め池がいくつも存在するだけのこと。私たちが関わる地域のコミュニティとなんら変わりがないのだ。ただ、住む場所とアクセス時間を問わないだけのこと。

 

 だから、そこでどうやって主体的に関わるかは自分次第。自分軸が希薄な状態で関われば、早晩、その溜め池の淀みに沈んでいくだろうし、自分自身が淀みの発生源となり果てる可能性だってある。

 

 もちろん、その淀みとは、軽い噂話に始まって愚痴、不平不満、批判、誹謗中傷へと、悪臭を放つヘドロの沼になっていくこともある。

 

 地域であれ、ネット上であれ、どんなコミュニティに参加するかは自分の自由。けれど、そのコミュニティ内の自由は保証されているものではなく、関わった以上は、そこでの責任を果たすことが求められ、期待されるだろうし、また、そこで発生する人間関係の摩擦は避けては通れない。

 

 だからと言って、激しい批判を繰り返してまでそこに留まる必要はないし、挙句の果てにそこで消耗するなど馬鹿げたこと。なぜなら、参加する自由があるならば、やめる自由も間違いなくあるということだから。ならば、その自由を行使するのは自分自身でしかないですね。

 

 それにしても、今も多くの人たちが私の元に訴えにやってくる。「捨てたいのに捨てられなのです」と、時に涙を溜めてまで訴える。

 

 そうですね、自分のモノ一つでさえ、その捨てる自由を自ら放棄しているならば、それよりも更にハードルの高いはずの人間関係の溜め池から抜け出す決断をするのは、もっと難しい。

 

 「捨てたらいいのに」「やめたらいいのに」と、簡単なアドバイスでは済まないのが、私たち人間の持つ厄介な意識の縛り。過剰な所有欲、侮れない所属欲求が持つ心の闇。

 

 そう、人間関係の断捨離は、私たちの課題としてそうまでも大きく立ちはだかるのです。

 

<yahoo!ニュース JAPAN やましたひでこ>
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