しばらく心が塞いでいた。


じぃばぁの介護が私の生きがいになっていたことを痛感している。


仕事は四週六休で忙しい。


ゆっくり想い出に耽る暇もなく、しなければならないことにも時間が取れない。


人は言うだろう。


忙しい方が寂しさを紛らわすことができると。


幸せな家庭を持ち、天職と思える仕事に就き、それ以上の何を望むのか。


ただ寂しいだけ。


1ヶ月で父母を亡くして悲しいだけ。


高齢の両親を亡くすことは受け入れができていた。


高齢で寝たきりの認知症。


認知症でも苦痛はわかる。


レビーなら尚更、自分の置かれている状況を把握できてしまう。


だから苦痛から解放された両親を想うと安心する。


それでも寂しさは拭えない。


何も手に付かず、仕事も主婦業も中途半端な状態に陥っていた。


自己嫌悪が強くなっていった。


もう人の生死に関わる仕事から逃げたい。


高齢者をケアする心の痛みから逃げたい。


その人の気持ちやご家族の気持ちにリンクしてしまい苦しい。


思い入れが強くなったらこの仕事は出来ない。


自分が壊れてしまうから。


……今回は三連休を希望していた。


2日目が過ぎ心身の疲れから解放されると同時に、はたと気づいた。


10年前の長男の問題が沸き起こった時と同じだ。


あの時の私がいる。


何も手に付かず、仕事が忙しいことを理由に塞ぎ込んだ私。


家庭が壊れる寸前だった。


……昨夜、たまたま開いたブログ。


その人の言葉が私を目覚めさせてくれた。


一人一人想いは違う。


寄り添った言葉に対する受け取り方も異なる。


どなかた一人だけでも自分と同じように救われて欲しい。



……一部抜粋させて頂きます。



私は、死別の悲しみは「乗り越える」ものとは思っていません。
乗り越えるというより、消えることのない悲しみと共にどう生きていくか、
どうつきあっていくかを、少しずつ学んでいくのではないか・・・
そんな気がします。



亡くなった親が高齢だった場合、人はあなたの悲しみを理解してくれないかもしれない。年を重ねることを軽視しがちな文化だから。お年寄りは知恵、経験、愛を与えてくれる存在というより、もう役目を終えた人たち、という見方をするのかもしれない。
「大往生でしたね」「寿命でしたよね」なんて言われたり。「お母さんは特別な存在でしたね。お母さんとの絆は、大きな意味がありましたよね。お亡くなりになって、残念ですね」と言われるかわりに。 


痛みが消えることはないけれど、人と分かち合うことで、時間をかけて、痛みに耐えられるようになる。


体と心の限界を許そう


死別の悲しみを体験すると、疲れきったように感じると思う。思考力が落ちたり、物事を決められなくなったり。エネルギーが低くなることで、自然とペースをゆっくり落とすようになる。体と心の声を聴くようにしよう。自分自身をいたわってあげよう。しっかり休もう。スケジュールを、できるだけ軽くしよう。


悲しみは、(薬のように)「投与」するものと考えてみよう。



……今朝起きた時、心身が軽くなっていた。


始業式を迎えた長女にお弁当を作り、自分のタンスの整理から始めて、隅々まで掃除をした。



今日は久しぶりに心の洗濯が出来た。


職場というものは厳しいもの。


休みたくても休めない。


甘えたくても甘えられない。


気持ちを理解して貰えるはずもない。


お給料をもらっているのだから。


あと一日休んだら大分回復しているだろう。



ふんばるよ、私。