発達障害の強い特徴の一つに、「自分と他人との境界線があいまい」という点があります。これは定型一般の社会では一番理解しにくい特徴であろうと思います。自分と他人が溶け合って境目がわからない、というような精神世界など、経験したことがないし、自分というものを他人に誇示する定型の人は多くても、人と意識が一緒であるという前提で言動する人はまず、いないだろうからです。



ここまで書いて、「人と意識が一緒である」という所に「そんなことあるわけないだろう」とキッパリ言える人は、定型の方かなと思ったりします。発達障害の人間は、なぜか自分に独特の思考や、こだわりや、極端な好き嫌いがあるというかなり自分オリジナルの傾向があるのにも関わらず、家族や親しい他人に言葉足らずで説明もしないのに「自分の言い分、気持ちはある程度理解される・されているはずだ」という前提で言動してしまう傾向があると、よく感じます。



これは、地域の発達障害の成人の会に出席したときに、よく喧嘩腰になられたり、相手がひどく激高する時に到達する結論のケースなのですが、「私としてはもっと詳しく説明していただかないと、どんな事情があり、どんな気持ちがするのかということすら理解できないので、おっしゃっている内容すべてがわからないまま聞いています。」と伝えると、相手はとてもびっくりされるのです。


発達障害の人は、自分が言葉足らずであること、説明が少ないことに気が付いていません。なぜなら、心の中、頭の中には自分の感情で渦巻いていて、たくさんの思いがつまっているからです。それを話しているのだから、相手には伝わっているだろうと思い込んでいるのですが、実際に発した言葉だけでは、「あなたの頭の中にある感情や思考を全く知らない」他人には、正確には理解しずらいのです。推測するにも、背景を知らなさすぎて推測すらできません。



なぜこういうことが起こってくるのか、という理由ですが、一族の人間が代々しつけられてきた内容に答えがあるように思います。私達は、家族であっても「一人一人がとても個性的」で「一人一人の好き嫌いや、弱点、強い点はそれぞれに違う」ことが当然という前提で育てられています。誰ひとりとして、全く同じ人間はいないのです。兄弟姉妹でも感覚が鋭い人間、大ざっぱで気にしなさすぎる人間と違いの幅も広いです。ということは、どんなに近くで暮らしていても、血がつながっていても、「異なるのだ」ということがはっきりしています。ですが生まれたままの発達障害の子は、それを知りません。なぜなら自閉しているからです。



自閉している子の考え方、というのをまず理解しないと、そこを伸ばしていけません。自閉状態の生まれつきの性質では、世界は自分の意識だけです。そこに入り込める他人や環境はほんのわずか、その子が興味を持ったことだけ、です。親や兄弟が、その「興味を持った所」にたびたび登場するから、他人の存在に気が付くだけです。そして、その他人が自分にメリットとなるような、おもしろい事を運んでくるから、学ぶようになっただけです。そして学ぶようになると、「あなたは白が好きなのね」「お母さんは違う、赤が好き」、「おまえはつまらなくても、俺はこれが楽しいんだ」などと言われる経験をし、親や兄弟から人というのはみんなそれぞれ違うものを好むのだ、ということを知識として積み上げていきます。一族の教育の中では、「自分を知る事」がとても大事にされているので、こうした言葉での「あなたはこれが好きなのね」という説明により、ああ、自分はこういう傾向があるのだ、と知っていくことができます。そこが伸びしろであり、自分研究のはじまりであり、同時に他人との境目をはっきりと刻んでいく歩みでもあります。



話をもどすと、成人の会で激高される方や、たやすく怒りに取り込まれる方は、まず他人への期待感が高く自分の欲求や理想が他人の世界でも通用する、つまり全部が実現される可能性は高いと思っておられるケースが多いです。同意される可能性も50%、違う意見の人もいるだろうから反対される可能性も50%、と心から思える状態というのは、他人の異なる意見が存在すると冷静に受け止めていて、自他の境界線ができているからだと思います。そこを逸脱して、説得して納得させれば実現できる、と考えてしまうのは、他人の存在を意識する力がやや弱いか、他人の意思という領域にやすやすと踏み込む傾向があるか、自他の境界線が薄いこともが原因かなと考えています。自分の意見を出し、その場の人々を説得し相手を納得するように理論的にお話される。内容は間違っていません。ただ一つ、聞き取る力が弱いです。一方で発言力は強い。言いたいこと、したいことがあるときの発達障害の人間の瞬発力というか衝動性、力強さは群を抜いていると思います。しかし、他人に同じ程度の強い信念と欲求があるので、それを聞くということは頭から抜けてしまいます。「他人にはまた違う欲求と理想があり、あなた独自のものと異なるので、この場では同意されないだけです。その自分と他人の好き嫌いややりたいこと、したいことが全く違うということが、理解できますか。逆に、相手のやりたいことを、あなたは全く同じように私もやりたいと、今思っていますか。」という問いかけには、考えられない、そういう風にとらえたことはない、とそこから「他人と自分の境界線」という疎外感を感じるとおっしゃいました。百かゼロですので、意見が採用されないと自分はゼロ、完全拒否された気持ちがするのが理解できます。ですが疎外感の理由はそれだけではないです。


疎外感、と言いました。産まれてからずっと、他人との境界線をはっきりと区分けすることなく、やや自閉した世界で生きていると、精神的な自立がなしとげられていないので、こうした「自分と他人」という当たり前になければいけない境界線を急に示されると、ふいにとてつもない疎外感として体感します。このように、自分と他人が全く異なる人間だ、と理解することに恐怖や孤独を感じるようであれば、自他の境界線を理解しないまま成人し、他人は自分と同じ意識をシェアしていると無意識に思い込んで生きてきた可能性が高いのでは、と感じます。これは、親族と結婚したパートナー達からヒアリングした内容の一つでもあります。



私の家族や親族の中で、この疎外感を感じた経験のある人間は夫です。夫は自分の実家の家族にも、「理解してもらえない」と感じた際には自動的に疎外感、親に理解されないことの距離感を感じていたようです。これは兄弟や友人、先生にもふとした拍子に「理解されていない」疎外感を感じたようです。なぜなら、彼にとっては両親や兄弟、他人すらどこかで意識を同じくしているはずだという無意識の思い込みがあったからです。彼にとっては自分を理解してもらえないのは「相手が興味を持ってくれないから」であり、まさか「自分と親は違う考え方をして違う気持ちを持つから、自分から言葉を発して言わないと自分独自の思考や嗜好、感情は全く理解してもらえないのだ」とは知らなかったようなのです


私が彼とお付き合いをしている時に、初めて彼が私に向かって何かのことで怒りをぶつけてきたことがあります。確か、何か彼が苦手な事をやっていて、私が手伝わないので「自分は無理をさせられている。彼女に利用されている。嫌な事を押し付けられている、とても損なことをさせられている。」という気持ちが爆発したようです。私としては、彼の怒り方は普通ではなかったため、「なぜそんなに怒っているのか」を聞きました。その答えが「無理をさせられて、利用されて・・・」というネガティブな内容だったわけです。そんなことを思ってもいませんでした。ですのでただ淡々と「あなたが怒って考えていることは的外れだし、私には別に怒るほどのことではない。なぜなら私はそれが得意だし、簡単にできるから苦労だと思えないので。言ってくれたら私がすぐにやったよ。そこまで苦手で嫌な事なのなら、言ってくれたらいい。言わないとわからない。私も自分が得意だから、あなたも平気だと思い込んでいるのだから。」と説明して、さっさと目の前でやってのけたことがあります。



彼としては私が本当にやすやすとやってしまったので、言った通りなのだという事実に茫然自失でした。この時に、私は彼とは全く違う生物だ、とやっと気が付いたようです。彼は興奮気味に、私が言ったことに対する感想をあれこれ言いました。私は自分が育った背景から、「他人と自分は異なる」という意識ができあがっているので、自分が苦手な事は「あなたできる?」と聞くし、苦手な事を黙ってやりつつ、側にいる人に「なぜ苦手な事をさせるんだ!」と一人で勝手に怒る、言う発想にはなりません。横にいるからといって、私の頭の中、考えていることをダダ漏れ状態で相手が理解しているということは親子であってもありえないです。そこに、どちらかが「できる?」とか「大丈夫?」というたった一つの掛け声があれば、「いや、ちょっと苦手で」と返事もできるし、理解する糸口になりえます。だから聞いたり話したりすることは考えていることの交換としてとても大事だ、というようなことを言いました。



彼はどうやら、今まで生きてきた中でとてもおこりんぼだったようです。そして、その怒りが間違ったものであったようだ、ということに、このきっかけから気づき始めました。それ以降、私との会話ではお互いの考え方や育った価値観、知恵のやりとりを「言葉を交わす」中で深めていきました。以降、彼との間で怒りどなるような事態に遭遇したことが本当にありません。彼は話せば接点を見つけられる人でした。結婚、出産、育児、すべてにおいてたくさん、本当にたくさんの会話を交わしてきました。彼は口下手ですし、外界では不機嫌でぶすっとした人というように思われがちですが、それは話が苦手であり不器用だという弱点というだけで、伝えたい、理解しようとする意欲はとても強い人です。中身が充実している人、というのでしょうか。私にはとても得難い充実した会話をしてくれる人です。会話がうまい下手というのは表面的なものであり、大事なのはもちろん内容ですから、彼の弱点は大したことではありません。彼も自分研究をすすめていて昔よりは外界でも他人との会話もすすむようになっています。



話をもどしますが、他人との境界線はきっちりと区別すべきなのが発達障害の人間にとって必要なことです。それが今できている夫は疎外感を感じていません。むしろ、昔は得られなかった自分への自信を持っています。境界線が他人とあいまいだということは、感情を振り回され、怒りや悲しみに囚われ、自閉している意識から出てきていない、他人との会話の重要性を理解していない、会話とは何のためにするのかを知らない状態です。それこそ自分を知ってもらうためだ、そして他人を知るためだ、お互いの違いや相違点を言葉で交換して安心できるだけの「自分の姿」と「他人の姿」を、はっきりとした手ごたえのある形で得るためだ、ということを知らない状態なのです。


自分という像、他人という像があいまいでは、気持のありかがはっきりとせず、自分に自信もつきません。心もどちらにも行ったり来たりで、いったいどっちが自分の気持ちでどっちが他人の気持ちなのか、自分は本当はどうしたいのかすらわからない混沌とした状態にまで入り込んでしまうこともあります。ですので、すべての物事のはじまりとして、小さい頃から発達障害の子供には、自他の区別をきちんとつけていくしつけが必要なのです。



次回は、幼い子供の自閉している状態、産まれてから幼少期の自分と他人の境界線がわからない状態の例を書こうと思います。「うちの子、私には特に無理難題を言ってくる」とか「いつもいつも、自分にだけ押しが強い、罵詈雑言だ」というような経験をされている方に、何かヒントになるかもしれないです。





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