親だって人間なので、疲れている時や仕事で余裕のないとき、子どもに引きずられることだってあります。


そういう時にありがちなのが、子どもの凹み部分、弱点、目につくところに易々と引き込まれ、目が行き、結局はそこばかり取り上げて関わろうという「頭の動き」に支配されること。



冷静に考える余裕が持てない状態なのに次、また次と問題が上がってくるときには混乱するものです。

子どもの癇癪や精神的な荒れ、人間関係でのトラブルやできないあれこれ、やろうとしないあれこれ、ほとんどが子どもの自閉性や能力の凹みが原因の場合が多いのだけれど、それが1日中ずっと子どもの言動に露呈(垂れ流し)されたままだと・・・本当に困った「子」だ、と、つい思ってしまいます。そういう時に、他の親族の大人であり先輩である親から言われたことは、


「子どもに『自分が』困らされたら、一度一歩下がった気持ちで、1日ずっと眺めるといい」


「言いたいことを全く言わずに、一日だけ言わざる、でただ見ていなさい」


「注意したいこと、手を出したいことを一日だけ、やらずにじっと見ていなさい」


「そうすれば、少しは自分がどう子どもとやっていけばいいかが見えてくるよ」


と、言われました。



1日、離れてぼーっと見ていると、その都度その都度注意しても気を配っても、無駄な時だってあるんだな、タイミングが大事なのかな、とか実感することもあるわけです。


その子には、今の親の関わりパターンが全く合わない。と感じて自分の子どもとの関わり方に悩んだ時には、子どもの言動に追従するのをやめてじっと見て全体的にどうしたらいいかを、ざっくばらんに、ある意味途方に暮れながら考えたものです。ですが、そうしてざっくばらんに全体的に見た時の方が、上手くいくものなんですよね。


子どもも親の関わり方が変わると、近づき方が「向こうから」になってきます。例えばこちらが完全に引くと、あちらが来るという感じでしょうか。いつもいつも声をかけていたのは親の方だったのに、いつのまにか子どもの方から親へと話しかけてくるようになったり。そんなに親が出張らなくても、子どもは機嫌よく飄々としていて全く困っていないことに気が付いたり。


子どもに巻き込まれたように感じる渦中にいる時は、気持ちがその子の特性や凹み具合に愕然としてどうしたらいいか、と悩みまくっていたのが、子どもがどんなに手間がかかっても、マズイことを繰り返していても、ひとたび距離をあけて眺めていると「ああ、子どもだなぁ」と、当たり前なんですが、身体の大きさにごまかされている幼さに気が付いたり、何にも考えていないようで、時折ふーっとため息ついているのを発見したり、ちょこちょこと繰り返し何かをしてるんだけど、ああ、とがっくりしている場面を目にしてはけなげでキュンとしたり、口が立つように見えて言っている事が知識も狭くて聞きかじりでトンチンカンなのが可笑しかったり、子ども達の間で虚勢をはっていて「リーダーだ!」とご満悦な一部始終が可愛かったりしました。


子どもは子ども、幼いなぁ、まだまだだなぁ、という子どもっぽさを感じると、とたんに可愛く思えたものでした。


近づいて、寄り添うだけがいい方法、というわけじゃないんですよね。時には1日、全くこちらから声をかけず、手も出さず、ただそこにいる同居人というだけの立場で眺めてみると・・・子どもの事も、親としての自分のことも、もっと発見してわかることがあったり。


一息つく1日が身体や心を休めるだけじゃなく、発見を伴う貴重な1日になったりすることもあるので、疲れた時はやはり・・・休憩ですね。親も子も、1日離れて関わらず、誰からも引きずられない状態でゆったりと、「自分だけのために」自分の頭を使い、時間を使う。そういう時も大事かな、と思います。





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