今日の記事は主に自閉症、発達障害のある子どもの対人能力、コミュニケーション能力についての話です。

 

幼稚園や小学校で、また親子の間で

 

「会話ができない」とか

 

「いついじめられる」とか

 

「結局は、最後に仲間外れになる」とか

 

「怒って怒鳴ったり、乱暴な物言いをして嫌われる」とか

 

家庭や園、学校などの小集団、大集団の中での人間関係を見ると、発達障害がある子が対人関係上のトラブルにあうとか、うまくいかないということは多いのかもしれません。

 

では、どんな人間とも、誰とでもトラブルになるのでしょうか?

 

どんな相手であっても、「対人関係が困難である」のでしょうか?

 

この点については、あまり世間一般的には追求されていないと思います。ですが、なんとなく発達障害児を支援されているサポーターの方や、発達障害児の会のメンバーさんなどは感じておられることがあるのではないでしょうか。

 

それは、「必ずしも、自閉症、発達障害の子だからといって、対人能力が発揮されないわけではない」ということです。

 

これは実は、とても大事な隠れたダイヤモンドの原石です。誰も気が付かず、「どこに連れて行っても、誰と遊んでもうまくいかない」という集団の中での「個」としての子供の能力しか見ていない場合に見落とされがちです。

 

私たちは親族の多くが発達障害、自閉症でありますが、ではそのメンバーが諍いが多いのか、喧嘩が多いのか、言動が乱暴になるほど関係性が悪いのか、というとそれがありません。いたって平和、世間で集団生活を送るよりも安穏としており、言葉での説明が下手だったり、短気・衝動的な性質を持って生まれた人間でも、親族といる時はリラックスして「これが本来の自分である」という自然体の姿でいます。

 

それは血のつながった親族集団だからではないか、と思われるかもしれませんが、結婚相手は血のつながらない他人です。そうした他人でも、約半数は発達障害の診断を成人してから受けていたり、結婚前には二次障害のうつ病などで治療を受けていた経歴がある人間です。それが、長く共にいると「自然体」になります。精神を病んでいた状態があったとは思いだせないほど、リラックスして笑顔でいます。

 

さらに、それより他人の、かつ発達障害のお子さんとわが親族の子との関係はどうでしょうか?

 

都心に住まう親族も、田舎の親族も、それなりに学校外での「仲の良い友達」という存在が小学校中学年~高学年にはできることが多いです。それは、何も無理に付き合っているというわけでもなく、親の介入も必要ないぐらいの自然な付き合いができます。

 

発達障害の子は、小さいころに療育に出かけたり、説明会に参加したりして「障害仲間の集う場所」に出かけることがあります。その中で、相性の悪い「会えばすぐに興奮し、身を守るために言動が荒くなる」関係になってしまう組み合わせもありますが、「会えば似たような雰囲気が醸し出されて、なぜか長時間一緒にいても、いがみ合わず、ただ一緒にそこにいて、時には共に同じおもちゃを触りだし、親とでも会話が成り立たないのに、遊ぶために会話をはじめる」という組み合わせに出会うことがあるのです。

 

一つ、具体例を出しましょう。

 

宇宙語を話していた高機能自閉症の親族の子が、会話力はある自閉症スペクトラムのお子さんとある自閉症のお友達と遊ぶ会で出会いました。スペクトラムのお子さんは、学校では遊びが偏っていて同級生の輪の中からはじかれている状態で、孤立しています。お友達は欲しいけれど、誰ともうまく、楽しく遊べない。年相応の「子供たちで作り出す遊び」にはついていけず、テンポも合わず、たまに仲間に入れてもらっても、次からは「え~今日はむり」「だめ」と言われて入れてもらえなくなります。

 

高機能の親族の方はマイペース、他人を認識していない時期が長かったので、なんとなく学校生活を送っている今でも特定の友達とそれらしい付き合いはできていません。近所の子と遊んでも「遊び」になりません。わけもわからず、ただそこにいて、皆が走るからついていく、皆がボールで遊ぶからそこにいて、ボールがきたら触るかける、ということをするだけで「何の遊びをしているか」の認識はあまりありません。そして興味を失うとふいっと自分がら集団を離れてしまいます。

 

その2人が出会い、「2人は波長が合いそうだ」ということで、お互いの家でゆっくり2人だけで遊ばせてみようと試みました。実は、こうした「自分の家、という安全テリトリーで、波長の合いそうな相手一人だけと、ゆっくり過ごしてみる」というやり方が、対人関係を伸ばすときには一番ハードルが低く、上手くいくケースだと私たちは考えています。

 

部屋は構造化されていて、パニックしにくく、がらんと何もなく絨毯にバランスボールだけ、おもちゃは全部箱にそれぞれ仕分けされていてカバーがかけてあるので「見えない」状態です。ですのでスペクトラムのお友達が来ても不安でパニックになることなく過ごせたりします。

 

家に入って、流れ作業で「動物の足跡のシール」をたどり、洗面所で手を洗い、手をふいて、そのまま子供部屋へすんなり移動できたことも驚きでした。ですが高機能の親族の子が一人で手を洗い、部屋に行けるように「動物の足跡のシール」が目印に床に張ってあるのと、それ以外が目に入らないように洗面所の洗濯物は籠に入れて蓋がされ、洗剤などは全部棚に入っていて見えず、「何もない」状態でシールだけがかわいく目立つので、それだけに意識がいき、たどりたくなるのは当然です。

 

そうして「わかりやすい部屋の作り」に混乱せず、シールの行先は何があるのか「ちょっとわくわく」して親族の子のあとを追って部屋に入ったところ、そこは何もない構造化された部屋で、でも綺麗なグリーンのバランスボールと、怪我をしないようにふんわりとした手触りのいい絨毯が敷かれている・・・その子は躊躇なく、目にパッと入って来たバランスボールに抱きつきました。

 

親族の子が安心できる環境は、他の発達障害の子にも安心できる環境である、ということがこの「初めて1対1で遊ぶ」という状況を、優しく迎えてくれるのです。ここが一番、親が整えられることとして大事な部分ではないかと、常々思います。

 

入りが良ければ、だいたい最後まで良い状態で追われるのです。環境に影響されやすい子達ですから、良い環境でわくわくと気持ちのいい状況で過ごせることは、そのまま「最良の状態で自分を出せる」ことにつながります。悪く転ぶ要素が少なければ少ないほど、発達障害の子供は自分の一番良い力を発揮できます。

 

その後のこの子達には、親の力はいりません。

 

2人でボールにのっかって、転がったり、転がったボールを部屋の中央にお互いもどして遊ぶという「協力」をいつの間にか見せるようになり、1人だとボールにのってもそれだけ、で終わるのに、2人だと、乗って少しふざけて転がして、追いかけて、中央に戻して、乗って、というちょっとした変化のある楽しさを味わえます。まず他人の家に入って「笑う」ということがなかったので、相手のお母さんはびっくりされました。

 

もう一回、もう一回、と思う気持ちでいつの間にか、2人が協力してボールを転がし、いつの間にか2人が楽しいのです。

 

飽きてくる頃に、2人共通の「好き」であるマグネットブロックを出して来たり、それに飽きてきそうなときは他の「共通の好き」であるお魚釣り(手作りで、クリップがついた魚の絵を釣り竿で釣れるようにしています)を、キャーキャー言いながら、時には一人で没頭しつつ、時には2人で「黄色!次黄色!」と同じ色の魚を取ろうという2人だけのルールで遊び始めたり、遊びがどんどん「2人の世界」で広がります。

 

スペクトラムのお母さんは、そんな子どもの「はしゃいだ声で、笑顔で、自然体で自分たちのルールまでつくって1時間も、2時間も遊ぶ」のを初めて見て驚愕されていましたが、うちの親族の子達では珍しくありません。

 

条件さえ合えば、つい前年度まで宇宙語しか話さず、いまだ目は他人にあわさず、ぽそぽそ独り言のように話す不思議ちゃん、周囲の状況が分からない子でも、こうして目の前の子を相手に、それこそごく普通に遊ぶ、といういことができるのを知っています。

 

こうした子は、「条件」が大事なのです。

 

遊んでいる時に、「こうだよ、こうするんだよ」と指摘したり整えようとする相手とは、合いません。

 

遊んでいる時に、遊び以外のこと、相手にちょっかいをかけるとか、大人のような目線で色々と相手を面倒を見ようとか、指導しようとか、指摘しようとか、そういう気配のある子とはうまくいきません。

 

純粋に、「遊ぶ」ことを楽しめる、同じ波長の、遊び以外のことを相手にしない、遊びに夢中で遊び以外の相手に対する指摘も面倒見も指導も興味がなくなる、とにかく遊んで楽しい、そういう相手とならいつまでも、平和に楽しく遊べます。それどころか、短時間で

 

「のどかわいた」「お茶飲みたい」

 

「おちゃこっち」

 

と言って、普段、他人のためにお茶を入れたこともない親族の子が、冷蔵庫にお友達を連れて行って、あらかじめ用意されていた目の前のお盆の上のコップにお茶を入れて、しかも指や手の力が弱いので不器用にお茶を入れようとしているのを、相手の子が一緒に支えて入れるという「共同作業」を難なくやってしまい、お茶をごーっと2人で飲んで、「さあいこう!」とウキウキとまた部屋へ戻っていく・・・

 

という、大人入らずの様子まで見せてくれました。

 

人への思いやりとか、お互いを支えるとか、協力するということは、「やれる」時にやれるようになるものであり、教える時にもこの「やれる状況」になれば、絶対やらない・できないと思うような子でもやれる時があります。

 

この2人は、2時からたっぷり5時まで遊び、普段は他人に興味も示さないような親族の子が

 

「え~まだ。まだ遊ぶ」

 

「○○ちゃんと遊ぶ」

 

と、この子と遊びたいのだという意思表示をしてくれて、そんなことを言われたことがめったにない相手の子は嬉しくて笑顔が炸裂しますし、お母さんは「またぜひ遊びましょうね!お母さんたち2人でちゃんと遊ぶ日付を相談して決めるからね。」と嬉しくなるし、それを聞いて親族の子は嬉しくなるし、で、幸せな雰囲気の中、おひらきになりました。

 

最後に高機能の子が、自分から大事にしていたおもちゃの消しゴムを3つ、相手の子に手渡して、わけのわからない相手に親族の子のお母さんが

 

「あなたにお土産だって。嫌いじゃなかったらもらって」

 

と言うと、「大好き、動物の消しゴム大好き!ありがとう!」とお礼をいい、親族の子も嬉しそうだったそうです。

 

驚くべきは、子供たちが自然とお互いに別れ際に「ありがとう」と言って、名残惜しそうにしていたことでしょうか。

 

「ありがとう」という言葉を、高機能の子が自分で自発的に言うほど、その日、その子と遊ぶということが今までになく楽しかったわけです。

 

「ありがとう」という言葉を、何度も言うほど、スペクトラムの子はこの数時間での遊びに満足して、楽しかったのです。

 

良いお友達を得て、自然と2人でお互いを高めていける相手と会えて、子供たちは幸せです。その後、月に1回か2回のペースで約束をして遊んでいます。先日は水筒を持って、裏山でずっと遊んでいたそうです。

 

母親同士も、子どもを眺めているだけ、たまに一つ出したおもちゃを次のおもちゃで遊ぶ時にさっと箱に入れて見えない場所にしまうという「遊びやすい整った環境の維持」だけをサポートするだけ、またはお腹がすいてきたころに、おそうめんやホットケーキなど、お互いが好きなものを用意しておいて区切りのよさそうな時に食べることを促すなど、ちょっとした体調管理をするだけ、です。

 

積もる話もできますし、親同士もひと時のくつろぎと喜びの時間を持てます。

 

この記事の題名にした、

 

「子どもの対人能力、コミュニケーション能力が低い?本当にそうなのだろうか。」

 

という言葉は、私たちがなんとなく思っていることです。親族の子達は、おのおの、それぞれに「自然体で付き合える人、お友達」というのが主に学校外で、できていることが多いです。

 

会社勤めをしている大人が、会社の人間と仲の良い「お友達」になれるかというと、そうではないのと同じで、発達障害の子には会社が学校であるだけで、学校勤めをしているからといって、そこで「仲の良いお友達」ができるかというと、そうではありません。

 

学校は学ぶ場で、いろんな縛りや、時間という制限や、障害特性のある子にあわない環境設定なども存在します。条件的にはとても厳しい状況だと言わざるを得ません。その中で発揮できる能力というのは非常に少なく、その発揮できない中で対人能力を見せましょう、と言ってもできないものなのではないか、と思うわけです。

 

先生や、大人から見ると学校で、またご近所での対人コミュニケーション能力は低いと感じるでしょう。だから「対人能力に欠ける」という内容が診断の中に書かれるわけであり、親もそういうもんなんだな、と思う「事実」が学校や習い事先、塾などでは毎日繰り広げられていると思います。

 

ですが、対人能力は、最も良い条件であれば、人を認知していないような障害特性のきつい子でも、楽しいを感じ、相手がいることがこんなに面白いなんて、という感想を持ち、それがその子に成長する変化をもたらすことがあります。

 

発達障害の専門医がたまに「この子にあった雰囲気の、ストレスの少ないグループで、丁寧にゆっくりとした環境に入れば伸びるでしょう」と言うことがあると思います。うちの親族の主治医たちも、そういいますので。それが、今回書いた記事の内容にあたると、私たちは思っています。

 

世間の集団に入れて、もまれて学ばせる、とは逆をいく発想です。ですが、それが本当に子供の中の「何か」を揺り動かし、脳も感性も成長させて、親がどうこうするよりも自分の力で伸びているということが実感できると思います。目の前で、「自発的にするあれこれ」を目撃すれば、「この子、対人能力、実はある・・・というか、出てくるんだ」と否定できなくなります。

 

こういう、一般的な集団生活では学べないことは、個別に家で、学校の外で学んでいくしかありません。むしろ、私たちの親族に必要なのはこうした家での学びです。そこで基礎がしっかりできれば、いずれ中学や高校で世間一般の集団社会に入っても、年数を重ねて培った基礎力を武器に、そこで「仲の良い誰か」と出会って、普通、と言われる社会の中に合流していくことができます。

 

最近は発達障害や自閉症の子達が知りあえる会やNPOが増えて便利になりました。親族だけではどうにもならなかった世界が、日本中のあちこちで出会えるようになり、気の合う仲間が見つけやすくなり、昔ほどは「気の合う他人」を見つけるのに苦労しなくなりました。

 

離れていても問題ではなく、電車で1時間の距離だろうと、楽しく遊べる「お友達」と会えるその日を楽しみにしている子達を見るのは、とても親としても嬉しいものです。

 

ゴールデンウィークは、そうした「特別なお友達」が遊びに来る、遊びに行く、という話でもちきりです。同級生との関係も薄そうな、人との関係性を理解していなさそうな子が、大好きな「特別なお友達」との別れ際に涙を見せたりするのだから、心というのは、どんなに不思議ちゃんに見えても、しっかりとあり、また育っています。

 

世間で誤解されそうな「家族でも、子どもの心をあまり感じられない不思議ちゃん」と思われているような自閉症や発達障害の子達への、誤解の一つを紐解き、そうした子の「心の育ち」は普通ではなく、一般的ではないですが、条件さえ整えてあげれば自然と伸びますという結論を書いて、終わりにしたいと思います。

 

 

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