発達障害の人間は、自分の中の哀や怒の感情にまみれやすい人も多いと感じます。常に能天気であるように思える積極奇異型の人間でも、生まれてから大人になるまでに、どこか繊細に傷ついた記憶がこびりついていることもあります。

 

子供は、幼児期、児童期は特に集団生活の中の周囲の子供達みんなが発達段階にあり、感情の表出に遠慮がなく、時に刃となり、時に攻撃となり、時に大きな感動となり、とにかく喜怒哀楽が激しく、理性というストッパーのない状態でわあわあと生活するため、発達障害の「哀と怒」を強く感じる傾向のある子は、かなりの刺激にさらされて翻弄される時期でもあります。

 

そんな子供達が、競争や上下関係や、優劣をつけるという「もまれる子供社会」でもまれにもまれて心に生み出す怒りや恨み、悲しみや自己卑下などの感情は、その子の人格をかたどっていく一つの大きな要素になるため、よく「二次障害にならないように」と警戒されることも多いのだと思います。

 

多すぎるこれらの哀や怒の感情は、時には子供の精神や心をむしばんでしまうため、「その子の受容度に応じた器」によって、あふれ出ない程度に時に支え、時に避難させ、時に休息を取らせて余裕を残した状態で、「その経験から学べる」ように状態を平たく、安定させていくことが良いと、私達は感じることが多いです。その手段として、通級、支援級、飛び石登校や不登校、転校、フリースクールの利用などをすることすらあります。

 

「学べる」というところのさじ加減がとても難しく、過度にストレスをかけた状態で、

 

「ほら、今回の経験から学びなさい」

 

と教えたところで、受けた攻撃や批判、蔑みや孤立などの衝撃が強ければ強いほど、学ぶ余裕も余力もないので、ただ落ちていく、精神が下降線を下るように健康を損なっていくこともあります。

 

では「学べる」という状態は、いったいどんな風なのか、という現実を、時々私たちは親族の子達の「今」に見ることがあります。

 

子供は、発達障害という凸凹を持っていても、弱いながらも強さも備えています。砂漠の中で水もない状態では弱いだけの子供も、緑あふれる植物の中では、少しの冒険やプレッシャーも乗り越えていけるのかもしれません。そうした瞬間を、目撃することがあります。

 

ある親族の子の例を出してみます。

幼稚園年少ではどんなに周囲に子供達がいても、いつも一人。他人を気にしなかった親族の子が、年中、年長とあがると「誰か」一人を気にしだしたり、突然遊びに割り込んだり、自分には友達がいないことを「寂しい」と感じたりするようになります。

 

その自分はなんだか他人と違う違和感、なんだか人といることが、いるだけで難しいというまとわりつく不安感、寂しいという孤独感が、子供を変えていくきっかけとなることが見て取れます。

 

幼くして孤立することが、それほど悪いことでしょうか。寂しい、自分は疎外される、なぜかやりすぎてしまう、そんな疑問や体験が、その先の経験の種になっています。子供達は、そのまま疑問を持ちながら、毎日を過ごしています。

 

時に、早くに療育に出会えた子は、専門家や親から「あなたがみんなをざっと追いかけるとみんな逃げてしまう、だから追いかけるより、1人ずつ、手をつないでみましょう。」と、漠然と迫るのではなく、「一人の人間」と、1人ずつ、知り合いましょう、と、効果的な方法を繰り返し示されただけで、卒園する頃にはその子が「○○くんは、こんな子。○○ちゃんは、こういうのが好きな子。」と、人として識別、判別がつくようになっていました。

 

この子が変わるときには、いつも「辛い」とか「悲しい」であろう体験が根底にあります。人間の本能だと思いますが、哀の感情からは抜け出たい、そのままだと苦しい、という思いが自然とついてくるのだと思います。その時々をくみ取って、より悲しくならない、哀の感情を繰り返さないでいられる実践を繰り返していくと、発達凸凹の子でも「学ぶ」ことがあります。

 

親族の子達には、私達大人は、できれば辛い思いや悲しい思いのない、幸せで安寧とした生活を送ってほしいと思っています。ですが現実社会は、喜怒哀楽のすべてが存在するのであり、どれかを全く経験せずに生きていくことはできません。

 

悲しい感情も、辛い、と思う感情も、過ぎた過剰な量になると「その子の器」が受け止めきれなくなり壊れそうになりますが、この社会にある「哀の経験」は、少しはその子の成長に必要な要素となっているのだと感じます。

 

同じ様に、怒りの感情も、過ぎると自分自身の評判を落とし、周囲を巻き込む台風のような現象を起こしますが、怒りもまた、必要な要素の一つではあります。

 

発達障害の子、親族の子達は、そのどんくささや、不器用さ、大口をたたきながら失敗ばかりの様子を見せることから、卑下されたり揶揄されたりすることもかなりあります。支援級にいて、時には耳を疑うような言葉を投げかけられることもあるのです。

 

そこで感じる怒りは、不当でしょうか。自分はダメだから、と卑下することが正しいのでしょうか。人は、技能が劣るからといって、体が完全ではないからと言って、心の発達が遅れているからと言って、揶揄されたりバカにされたりするのを受け止めなければいけない、といういわれはありません。

 

正当な怒り、というものも存在していいのだと考えています。相手を攻撃する怒りではなく、自分が不当に扱われた、という理不尽さへの抗議の怒りです。それが自分を卑下せず、むしろ相手が人を下に見たり礼節を欠けた態度を平気でする、という相手の資質をストレートに見る目を養ったり、同級生として、また知り合いとして「自分を大事に思ってくれてはいない」と判断力へつながり、「自分を大切に思ってくれる人を大切にする」という方向性を確実にしていくこともあります。

 

怒りを持った子に、こうして明確に自分が感じている怒りの種類を説明し、物の見方を伝えていくことで、将来の自分の親友や伴侶を見つけていく力とすることもあります。

 

親族の中で感じることは、傷つく事の多い感情を持っている人間ほど、こうした親からの少しの「視点」を授けてもらう事で、見えていない「自分を攻撃しない人の存在」を、クラスメートや家族、知人の中で見つけるきっかけにつながることもあります。自分を蔑んだり攻撃しない人の存在が集団の中で見つけられることは、少しの安心をつれてくることにつながることになったり、時にはその人の中から友人という糸につながったりします。

 

こうしたことに気が付いたというきっかけが、怒りを伴う経験にくっついてきていることも多々見られた、という事実があります。親族の子達は、生まれ持った特性が全開状態の幼子の時代から、多感で傷つく事も多い児童期を経て、思春期を迎え大人になっていきます。その一人一人の今を、かたどっているものは、やはり哀や怒の経験を踏まえてのことです。

 

辛いばかり、悲しいばかりの時は自分の感情の中心にしか目が向きません。その感情の波にのまれて閉じこもりそうになりますが、願わくば周囲の大人たちが、子供が過度に感情に傷ついていない、少し受け入れる余裕のある時に、こうした大人だからこその視点を細く長く伝えて、子供が弱さを持ちつつも、強く一歩が踏み出せるよう、自分を恥ずかしく思わずに前を向いていられるように子供達の近くに大人たちが寄り添っていることを願っています。

 

 

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