太閤秀吉は秀頼が生まれたので関白秀次を疎ましくなったという通説は本来あり得ない
豊臣秀頼 wikiより
読者の皆様、本年は酉年で「変化のある年」という事でよろしくお願い申し上げます。
さて前回のブログ
聖書を聖典とするユダヤ教キリスト教イスラム教勢力が過半数以上で日本の神道は0.0% http://ameblo.jp/matsui0816/entry-12233019837.html
の最後に「秀吉が秀頼が生まれたので秀次が疎ましくなった、という通説は「当時の資料を無視するから言えることである」(本来あり得ない)という事をお伝えしたい」と書かせて頂きましたが、
まずは昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」では國學院大學・矢部健太郎先生の「秀吉は秀次を殺すつもりはなかった」という論文が「新解釈として」三谷幸喜氏の脚本に援用されことを覚えておられるでしょうか。
詳しくは以下のブログをご覧ください
また矢部健太郎氏は「関ケ原合戦と石田三成」吉川弘文館 P80」で
著者(矢部健太郎)は、五奉行による「切腹命令」は甫庵の「創作」という可能性が極めて高いと考えている。
そうなると、「秀吉が秀次を切腹させた」ことを示す直接的な史料は、
ただの一点も存在しないことになってしまうのである。
改めて、根本的な見直しが必要な研究課題だろう。
(矢部健太郎『関ヶ原合戦と石田三成』、吉川弘文館、2014年)
と書かれています。
秀次事件においては、秀吉の子、秀頼の誕生が秀吉を狂わせた、というものも多く出ています、
いわゆる愛息秀頼を後継者とするため、〈殺生関白〉の悪名高い甥の秀次に追放・切腹を命じた」とか「秀吉が生まれた途端、秀吉は関白秀次を疎ましくなった」などという秀頼出生による秀次事件原因説が、根強くネット上でも見られています。
しかし、この秀頼出生原因説に関しましても、
改めて、根本的な見直しが必要な研究課題だろう。
という事をお伝えしたいわけなのです。
まず秀吉の唐入りは文禄・慶長の役と呼ばれていますが、秀次事件が起こったのは文禄4年7月ですから丁度この文禄と慶長の役の間に起こっています。
つまり、秀吉の唐入りの最中に起こったという事です。
しかも前半の文禄の役というのは決着が戦いではなく交渉待ちという、いわゆる一旦休戦というような形になっています。
ここでのポイントは、秀頼の誕生が文禄2年の8月という明との停戦交渉(文禄の役)が行われている時に秀頼は生まれているという事なのです。
今回ご紹介する、大陸にある日本の諸将に対し文禄3年正月十六日に出しておられる朱印状(公的文書)は秀頼誕生の翌年のものですが、文禄4年に「秀次をして」唐入りをするので、その為の準備をしっかりしておくように、というものです。
ですから、当時の諸将に対する秀吉の朱印状に文禄4年に「秀次をして」唐入りをすると出てきますからは、秀頼誕生で秀吉は秀次が疎ましくなり秀次を関白から追いやろうという歴史が展開する、なんてどころか、展開するのは唐入りを何としてでもやるのだ、という並々ならぬ秀吉の強い意思なのです。
では文禄三年正月十六日に諸将に出された朱印状の内容をご覧ください、
国立国会図書館デジタルコレクションではP184~185、コマ=102にあります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356
国立国会図書館デジタルコレクション(コマ=102)
上記がその内容です。
ただ、この朱印状の口語訳の掲載の前に、この資料(朱印状)の信ぴょう性について申し上げておかないといけません。
歴史を研究するにおいて、やはり使用する資料の信ぴょう性を考えないで妄信することのない様にという姿勢は大事ではないでしょうか
歴史的資料が本物がどうかを知る方法の一つとして、矢部健太郎先生は拙著「秀次の切腹」でも、写しの存在を言われています。
つまりコピーがなかった時代では秀吉政権のお達しを大名たちは原本や写し取って持ち帰っていたわけです、
ですから幕府より送られた「原本」や「写し」が存在するかどうかはその資料の信ぴょう性を見る上では重要な要件になってくるわけです。
矢部氏が小瀬甫庵の「太閤記」について
「徳川幕府成立後の17世紀前半に成立した「読み物」であり小瀬甫庵による「創作」という可能性が極めて高いと考えられる(前出:関ケ原合戦と石田三成p80)」
と書かれてますがその理由に
秀次事件での「秀次切腹命令」の存在を示す史料として一つだけ存在する小瀬甫庵の「太閤記」にあります文禄四年七月十三日付五奉行連署状つきましてもこの様な重要な書類でありながら、
この文書が実在したことを裏付ける「原本」や「写し」が伝承していない。(秀次の切腹 P155)
という事を指摘されているわけです。
ですから今回ご紹介の文禄十三年正月十六日の朱印状発給が本当なら、当時の諸将にこの朱印状や写しが残されているはずというわけです。
上記、資料文禄三年正月十六日に諸将に出された朱印状(写真参照)の左を見て頂きますと赤の傍線をで記しておりますのでお分かりいただけるのではと思いますが、
・加藤主計頭(加藤清正)とのへ
・羽柴柳川侍従(立花宗茂:立花文書)宛
・羽柴薩摩侍従(島津家文書『征韓録』)宛
・羽柴吉川侍従(吉川家文書)宛
の朱印状や写しが存在し確認されていますので当時、諸将に伝えられている内容だという事がわかります。
では本史料の信ぴょう性をご理解頂いたとして、続けさせていただきます。
まず秀吉からの朱印状(文禄三年正月十六日)の口語訳としまして徳富蘇峰氏の近世日本史「朝鮮役中」のP593に羽柴柳川侍従宛(立花文書)があり、そこに口語訳にされたものがありますので転記掲載させて頂きます。。
引用開始
「文禄三年に於ける軍事的活動は、在朝鮮諸将の意見を納(い)れて中止したが、その代わりに文禄四年には、秀次をして大兵を率い渡海せしむるに付、その準備として、各城(じょう)及び連絡の諸塞等(しょさいとう)、普請(ふしん)等油断なきを警(いまし)め、且つ兵糧も指し寄り、三萬石(さんまんごく)送りたれば、これを各自分割儲蔵(ぶんかつちょぞう)して、他日用兵の時に供せしめ。而(しか)して明國との講和には、本来信を措(お)かざるに就き、彌(いよい)よ軍事的占領をを持続す可(べ)く。
且つ朝鮮を以て、九州と同一視し、追って何(いづ)れも交代にて衛戍(えいじゅ::軍隊が永く一つの土地に駐屯すること)す可(べ)く、されば決して退屈せざる様注意し、特に在日本の諸将卒(しょしょうたつ)、何れもそれぞれの労役(ろうえき)に服しつつありて、之に比すれば、朝鮮における諸将卒(しょしょうたつ)は、却(かえ)ってその労苦の少きことを諭告(ゆこく:よくわかるように言い聞かせること)し、更に屯田持久の策を勧説(くわんせつ:ある行為をするように説くこと)したのだ。
(以上)(尚赤字強調は松井による)
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以上でございます。
口語訳と申しましても明治時代の方の文章は戦後生まれの者にはちょっと読みづらいところを感じてしまいますね。
ただ歴史的に大事な点もございますので、もう少し朱印状の要点を整理させて頂きますと
まず当時の、秀頼が生まれた一年後に「文禄四年には、秀次をして大兵を率い渡海せしむるに付」と、秀吉は諸将に対し朱印状(公文書)を出しています。
(秀吉には後陽成天皇から「渡海しないように」と文書が届けられていたこともあると思われます)
何せ、小西行長の交渉が進まない(明は恣意的に遅らせていた)こともありますが、秀吉は明の対応を疑っていたようで「明國との講和には、本来信を措(お)かざるに就き、彌(いよい)よ軍事的占領をを持続す可(べ)く」とありますように、秀吉は
「明はうそを言っている、信用ならないから、諸将は油断することのない様に」と、臨戦態勢を維持すべしという秀吉の考えを伝えています。
また文禄・慶長の役での秀吉の唐入りはうまくいかなかったわけですが、その理由に秀吉が中国や朝鮮の事をわかっていなかったことが言われています、その事を理解する文章が次の「朝鮮を以て、九州と同一視し」でして、驚くことに秀吉は朝鮮を日本の九州の延長のように思っていたということなのです。
(大陸の事を正しく秀吉に伝えることがされなかった、できなかった、秀吉の周囲はわざとそのようにしていた?の検討が必要になってきます)
最近の南シナ海に北朝鮮の核や慰安婦像の問題でもわかりますように、中国や朝鮮は日本人とは違う、歴史文化や価値観を持っていることを知らないと、国と国との関係をしていくことは大変難しいわけで、特に外交などは一筋縄ではいかないわけです。
ところが秀吉は中国の勢力下にある朝鮮を日本の九州の延長のようにとらえていたとなりますと、文化や価値観などの違いに対する理解がないわけですから、外地で戦う日本の将兵の苦労はわからないという事になります、
しかし、太閤となった秀吉は日本国内での感覚でもって得意になって作戦を考えている姿が彷彿とされてくるわけです。
外地で戦う将兵の苦労はわからない、という事がその次の「特に在日本の諸将卒(しょしょうたつ)、何れもそれぞれの労役(ろうえき)に服しつつありて、之に比すれば、朝鮮における諸将卒(しょしょうたつ)は、却(かえ)ってその労苦の少きことを諭告」とという言葉であらわされているわけです。
つまり海を渡って大陸に渡り、その異文化の中で内地以上に散々苦労させられているのに、秀吉からは「朝鮮における諸将は労苦の少きこと」と、渡海の諸将たちは「国内の大名から比べれば労苦が少ない」という見かたをされているという事が秀吉からの朱印状に書かれています。
ですからこの書を受け取った大陸の諸将たちに戦う思いが削がれるという厭戦(えんせん)気分が起こったというのも無理からぬことであったわけで、秀吉も大陸からの報告に歯車の噛み合わぬ不具合いを感じておられたのではないかと思うわけです。
ですから、諸将たちにやる気を継続させる意味でも秀次の唐入りは必然の要素であったことが分かってくるわけです。
通説で言われています秀頼が生まれたから秀吉は秀次が疎ましくなった・・・!
どころか、
秀吉秀次は「良好な関係であった」・・・なのです
國學院の矢部先生は一次資料の研究から、秀吉は秀次に対し気を使っていた、と書かれていますし、当時の駒井日記にも秀吉と秀次は良好な関係であったことが記されています。
今回ご紹介の朱印状(文禄三年正月十六日)からも秀吉と秀次は「良好な関係であった」、あるいは「そうでないといけなかった」という当時の状況が分かってきます。
秀頼が生まれた当時の秀吉は思い通りに進まない戦況や停戦交渉が進まないことに苛立ちをされていた背景もあり、秀吉の唐入りへの思いは並々ならぬ思いであることが書かれてますから当時の状況としては秀吉は秀次を疎ましく思うどころか、秀次への期待は大であったと言えるわけなのです。
ですから、秀頼が生まれたから秀次が疎ましくなって切腹させるなんていう発想がどうして秀吉に起こるのか?、と逆に問いたださないといけなくなってまいります。
秀次事件での新たな問題の提起
さて、そうしますと新たな問題が提起される様になってきました
それが、小西行長は秀吉から明との講和を任されているにもかかわらず、
秀吉が明帝に渡すように、と言われた秀吉の書状を、渡せばいいものを
石田三成とも図って、
中国側には秀吉が明に降参したという偽の書状を作り、
秀吉には明の皇帝が降参したという偽の書状を渡す
という偽装工作、言い換えれば明のほうについて秀吉を騙すというような行為を豊臣政権内部の要人たちが行っていた事なのです。
つまり、小西行長や石田三成にしてみれば、秀吉が秀次を大陸に行かせられる、という事は秀吉に偽って行っている自分たちの工作が露見することになるのでは、との疑心が当然起こってくるという事があったのではないかという事なのです・・・
この様に、諸将に「秀吉の文禄4年に秀次をして渡海せしむる、」という朱印状が出された当時とは、
明からすれば明の内政が不安地になってきており戦いを避けたい時であり、
バテレン(イエズス会)としてはゼウスの意に反した結果を出したいわけですし、
秀吉政権内では明との外交に足元を見られて眩惑されていた小西・石田の交渉担当らによる政権内部の困惑の発生と、豊臣政権内部の困惑を利用したい徳川の思惑が絡んでくるわけです、
この様な事から、文禄4年7月に起こりました関白秀次が亡くなるという事件は、文禄4年に秀次をして唐入りを再び行うという秀吉の意図が阻止された事件であった、という見かたも必要であると申し上げたいわけなのです。
では、通説となっています、秀吉と秀次の不仲説はどこから出てきたのでしょうか、秀次の殺生関白や秀吉暗殺などというものは徳川時代に入ってからの文献からですが、それ以前に、秀吉と秀次の仲が悪くなるという事が書かれているかを調べますと、ルイス・フロイスの「日本書簡」に見ることができるのです。
しかもルその文書が書かれた時期は「1592年10月1日」と文末に書かれています。
つまり、1592年は文禄元年でもありますから文禄4年の秀次事件が起こることをフロイスは3年も前から予言していたことになるわけです。
そして、その続きというべき内容が、秀次事件があった文禄4年(1595年)の10月に、イエズス会総長あての報告に秀次事件は実に事細かに書かれています。
イエズス会総長あての内容には、「関白殿には唯一つ、著しい汚点があった」という言葉から「関白殿の悪徳は次のようものであった」と非道の殿であった、という事がびっしりと書かれています。
「殿にとっては、人間の血を流すことは何でもないことで、人間を虐殺するにあたっても(その手段は)非常に戦慄的であった」
「殿はネロの再現かと思われるほど婦人を殺戮し、身体の内臓や子宮を調べたりした。」など(「 」内の内容は第1期 第2巻P95より)
アフリカやアジアなどで多くの奴隷や植民地を作ってきた事など、他人事のように、秀次は悪い結果を生むような悪いことをやってきた、神(ゼウス)の御心に反することをやってきた、などというフロイスの聖職者としての思いを書き立てています。
(多くの方がこの「十六・七世紀イエズス会日本報告集」をお読みになることが一番だと思われます)
ですから、報告書の翻訳や監修をされた松田毅一氏は第1巻の解題で
日本巡察師のヴャリニヤーノが
「自分が海外において繙(ひもと)いた日本発信の書簡に基づく知識と、日本に足跡を印して後の見聞とがあまりにも大きく相違していることに驚き、ローマの総長宛のの書簡中では、その相違は「白と黒」ほど大きいとまで表現した(以下略)」
「「年報は」在イエズス会員の布教活動や体験、および彼らが観察した布教に関係する日本の政界の動き等をすべて真正、かつ詳細に述べているかというに必ずしもそうとはいいかねるのである」
(「 」内の内容は第1期 第1巻 解題よりⅷ~ⅸより)
とこの報告書の信ぴょう性について注意を促しておられます。
しかし、この内容が徳川時代に出されてます書物には使われています。
この流れをどの様にお考えになるでしょうか
また唐入りという文禄慶長の役がどうして終わったのかと言えば、秀吉の死去が原因でした、
秀吉の死で唐入りは終わった、という事を衰退が進む明からしますと「明は助かった」という事が言えるわけで、ここで浮かんできますのが、いまだに不明と言われていますのが秀吉の死亡原因なのです。
醍醐の花見から急に体が悪くなっていった秀吉の容態様態から秀吉毒殺において明の介在を指摘する資料もあり、この件の解明も重要です
さらに秀次事件の真相を求めていく過程で豊臣秀次自身にも爆弾ともいえるような持病(漢方医学書集成6 曲直瀬玄朔より)を持っていたことを知るようになってきました。
秀次の死に関しては秀次が持病持ちであったという観点から調べますと、また新しい事実が出てきましたので、この後のブログでお伝えしたいと思っております。
しかしながら私は大学の先生でもなければ歴史を家業としているものでもありません、もうすでにすべて分かっている、と思っていたわけですが、こうも不明なところがいっぱいあるのだという事実に出くわしておりまして、仕事もしないといけませんし、膨大な資料を見ていかないといけないものですから、なかなかブログの更新ができません
それにしましても犯人が人に悪いことをさせて自分は善人ぶるというのは間接的な侵略の姿とも言えるかもしれません、秀次事件は400年以上も前の事ではありますが、外国との付き合いを外国の価値観や文化を知ろうとせず、自国の価値観でやろうとする間違いは、現在にも通じているところがあることに新鮮な驚きを感じさせて頂いております。、
これからも、日本史に関係する世界史は日本史である、という趣旨を進めていきたいと思っています
私は近江八幡の町おこし、活性化という事から歴史の勉強を始めていますが、こんな大変だとは思ってもみませんでした。しかし秀吉がすべて悪いとしたり、秀次を謀反人というのは真犯人隠しのための後世の創作と言える、という芽が出てきたようです。
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