先日のこと
『漱石と広島の会』が主催する
鈴木三重吉ゆかりの地を歩く会に参加しました

児童雑誌『赤い鳥』を創刊した
鈴木三重吉(すずきみえきち)が生まれたのは
広島市猿楽町83番地
電車通り(旧外堀)に面するエディオン本社のあたり

現在は工事中で防護壁で覆われていますが
こんな碑があります

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東京帝国大学の英文学科で
夏目漱石の講義を受けるも病気休学
能見島(広島県江田島市)での保養中に著した処女作『千鳥』が漱石の賛辞とともに『ホトトギス』に発表され好評を博し 
復学・卒業した後に教員になりながらも創作に励みます

さて『千鳥』を書いた背景には
従姉みつえへの失恋や幼くしてなくした母親への思慕があり それは生涯 三重吉の作品のテーマとなったと解説をしてくださった長崎さん

長崎さんは「鈴木三重吉『赤い鳥』の会会長」さんです

さて原爆ドーム横の相生橋のたもとには『赤い鳥文学碑』がありますが
碑の後ろに見える中州の慈善寺の鼻あたりは

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従姉のみつえさんが嫁いだ阿戸医院があったところだそうです

古い写真を提供いただいた郷土史家の益田さんによりますと 爆心地でも石の構造物は昔のままだそうです(太田川などの雁木や旧日銀なども)

また東京帝大で漱石の講義を受けた同輩の加計正文氏の家にも保養に行き 加計家の別邸吉水園で遊び加計の詩『山彦』を書きました
当時は川を遡ってしか加計町へは行けなかったそうですが 川とはこの太田川でしょう

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さらに少し歩いて
大手町通りと本通りが交差するところでも説明がありました

古い写真の手前に『井原青陽堂』という酒類や西洋雑貨を扱うお店が写っています
夏目漱石は中国や朝鮮を旅行し下関から東京へ帰る途中に 一校時代の旧友の井原市次郎に会うために広島の井原青陽堂に来ているそうです(日記より)

その場所を郷土史家の益田さんが当時の電話番号棒などから突き止められました

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それは本通りと大手町通りが交差するところで 写真の右手前に『青陽堂』の文字が見えます
すごい発見ですね
ちなみに写真の左右が大手町通りになり 現在も全く変わっていないとのことです

大手町通りを800mほど歩いて到着したのが 鈴木三重吉の菩提寺である長遠寺(じょうおんじ)

この日解説をされた長崎氏はこのお寺のご住職で歯科医さんでもあります

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長崎さんからは
鈴木三重吉のご家族についての説明があり
婚姻せずに生まれたお子さんのこと
神経質で酒癖がよろしくなく離縁となったが二人のお子さんは手放さず 結局 日本橋からお嫁に来られた奥様が面倒をみられたと---そして

大正7年 子供たちへ良質の本をという思いで童話童謡雑誌『赤い鳥』を創刊
新美南吉 坪田譲治 与田淳一 西條八十 北原白秋 金子みすゞ 成田為三などを育てた名プロデューサーでもあったと

一度は広島を引き上げて 東京の歌舞伎町や目白などで活動した鈴木三重吉ですが こうして最後は広島へ戻ってこられたのですね---

漱石ゆかりの広島文化人に触れた楽しい時間でした 世話役の皆様お疲れ様でした

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中区基町の広島こども文化科学館前の『夢に乗る記念碑』も鈴木三重吉顕彰会が建てたもので 元々は旧市民球場の場所にあったとのこと
※彫刻は円鍔勝三氏(尾道出身)