ヨハネによる福音書冒頭の言(ことば、ロゴス)は神の霊であり、キリストではない。その1 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

6月30日の記事、
聖書に書かれてある「この宇宙の初めと終わり」、 A to Z
http://ameblo.jp/kkokrjp/entry-11886513726.html


で「この宇宙の初め、始まり」は創世記の冒頭、


1:1はじめに神は天と地とを創造された。
1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
(創世記)


に書かれてる、と説明した。
この宇宙が始まる前には、神の霊(宇宙意識)ただひとつ(ひとり)だけが存在していて、その神の霊がこの宇宙を創ったのである。
これと同じことが新約聖書にも書かれてある。


1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2この言は初めに神と共にあった。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

(ヨハネによる福音書)


マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4っつある福音書のひとつ、ヨハネによる福音書の冒頭である。
私はこれは創世記の冒頭と関連している、というか同じだとしか思えない。
ここに「言(ことば)」(原典はギリシャ語のロゴス)とあるが、これは創世記の「神の霊」と同じだと思われる。


ロゴスの意味を調べると、
大辞林 第三版の解説
http://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9


ロゴス【logos】
①言葉。意味。論理。
②言葉を通して表された理性。言語・思想・理論など。
③宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法。
④キリスト教で,神の言葉。また,それが形をとって現れた三位一体の第二位格であるキリスト。ロゴス-キリスト。

と載っている。
この中から日本語訳では、言(ことば、言葉)を取ったのである。


聖書の神は、この中の
③宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法。


に近いかもしれない。
しかし、この意味自体がこのマルコの冒頭の記述から導き出されたものではないか?
とも思える。


そうすると、ロゴス【logos】の本来の意味は、
①言葉。意味。論理。
②言葉を通して表された理性。言語・思想・理論など。


ではないか?と考えられる。
日本語訳では、最も一般的な
①言葉。意味。論理。
を採ったのだろうが、
②言葉を通して表された理性。言語・思想・理論など。
に注目していただきたい。

ここに「思想、理論」とあるが、これは「思考、想念、意識」あるいは「意識体、想念体」とも考えられる。
「意識体」とは、いわゆる「宇宙意識=神」である。


そうすると、


1:1初めに言があった。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。


とは、
初めに意識(宇宙意識=神の霊)があった。
その意識(宇宙意識=神の霊)が全てのものを創った。


となり、これは創世記冒頭の記述と全く同じ意味になる。

もし、このヨハネの冒頭が、


1:1初めに意識(神の霊)があった。

1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。


と日本語訳されていたら、印象は全く変わっていたはずだ。
私としては、この訳の方が適切だったのではないか?と思える。
それが「言(ことば)」と訳されてしまった為に、かえって色々哲学的に考え過ぎてしまったのではないだろうか?


では、「言葉と意識」の関係をもうちょっと考えよう。
人間は自分が考えていること、思考、思想、理念を相手に伝える時は言語、言葉を使う。

では、自分一人だけで何かを考えている時はどうだろうか?
人間は目を瞑って思考する時は「ことば、言語」を使って考えている。
夢ではイメージや絵、画像、動画を見ている(と感じている)が、覚醒している状態では言葉を使って思考、思索している。


では、この宇宙が始まる前はどうだっただろうか?
この宇宙が始まる前には、神の霊がただ一人だけ存在していた。
それは、「人間が暗闇、無音の状態で瞑想している、思考している」というのと同じ状況である。
そこには思考(意識)=ことばしか存在していない。
だから、神の霊=ことば、と言えるのではないだろうか。


ただし、ことばというのは「思考の表現、伝達の手段、道具」にしか過ぎず、本体はあくまでも意識、想念、思考の方である。
意識、思考の方が主体、主人である。

ことばはその道具、奴隷である。

この意味からでも、言(ことば)よりも意識、想念、思考、神の霊と訳した方が適切だった、と思える。


では、これをふまえてヨハネによる福音書の冒頭の記述をもう少し詳しく読んでみよう。


1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。


創世記では「初めには神の霊しか存在していない」
だから、
>初めに言があった。

からも「言=神の霊」と言える。


>言は神と共にあった。言は神であった。
1:2この言は初めに神と共にあった。


この表現も「言=神(の霊)」としか解釈できない。


1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。


これも「言=神の霊が全て、万物、この宇宙を創った」という意味だ。


1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

これも「神の霊は(永遠に)生きていた。神の霊は人の光であった
と訳し、考えた方がいい。


1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。


これは創世記の


1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。


と対応していて、同じようなことを表している、と考えられる。
特に「そして、やみはこれに勝たなかった。」という表現は、


22:3のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
(ヨハネの黙示録)


の先取り、予兆、伏線である。

夜=やみ、闇だからだ

ここを意識して書かれた文であろう。

これは「光の子(天使)が闇の子(悪魔)に勝利して地上天国=天使王国が確立できた」

という神=人類の最終目標、最終到達地点を表している。


このように、創世記の冒頭とヨハネによる福音書の冒頭は、類似している。
どう考えても「同じ意味であり、同じことを表現してる」としか考えられない。

私は、聖書の真の作者(天使)は、

ヨハネによる福音書の冒頭と創世記の冒頭を、両者共にお互いを意識して書き、、(言葉、書き方は違っていても)同じことを表現した、と考える。

以前に「重要な事項は必ず二書以上に同様な意味の記述が見られる」
と説明したが、これもその法則にならってのことだろう。