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柳田国男

2018-04-25 | Weblog

1910(明治43)年6月柳田国男『遠野物語』

ひどく遠いの やな国よ。

1910年 『遠野物語』 柳田国男



[point]

1.柳田国男は、『郷土研究』を発行し『遠野物語』を著す。

[解説]

1.歴史学の柳田国男(1875~1962)は、民間伝承の調査・研究を通じて、無名の民衆(「常民(じょうみん)」)の生活史を明らかにする民俗学を確立し、雑誌『郷土研究』を発行し、『遠野物語』(1910)を著す。岩手県遠野地方に伝わる説話・民間信仰・年中行事などを集めた民間伝承の記録書。

2017同志社大・全学部

 沖縄県民の本土に対する劣等感を取り除くために啓蒙活動に積極的に取り組んでいた伊波普猷(いはふゆう)は、1921年に日本の民俗学の創始者として著名な( l )の来県を受け、沖縄研究に対する激励を受けてから、交流を深めることになった。

問1 空欄( l )に入る適切な人物名を漢字で記せ。この人物は1913年に『郷土研究』を創刊し、民間伝承の調査・研究を通じて「常民」の生活史を明らかにする民俗学を確立した。」


(答:柳田国男)〉


2017関西学院大・全学部

問10.下線部n津田左右吉に関して、正しいものを下記より選びなさい。

 ア.津田左右吉は、代表的著作『郷土研究』において、日本の農村史を描いた。

 イ.津田左右吉は.『古事記』や『日本書紀」の実証的・科学的分析を行なった。
 ウ.津田左右吉は、庶民の歴史を重視した『貧乏物語』を書いた。
 エ.津田左右吉は、儒教や仏教を外来思想として排除すべきとする『国意考』を著した。」

(答:イ〇、※ア×『郷土研究』は柳田国男、ウ×『貧乏物語』は河上肇、

1916(大正5)年9月 河上肇、『貧乏物語』

退く色肇 貧乏も。

1916年 河上肇 『貧乏物語』

エ×『国意考』は賀茂真淵)〉

 〈2017津田塾大(学芸(英文)):「

 [ 11 ]は『古事記』や『日本書紀』の文献学的批判をつうじて古代史に新境地を開き、農商務省の官僚だった柳田国男は、民間伝承や風習を研究する[ 12 ]学の確立に貢献した。」

(答:11津田左右吉、12民俗)〉


2016関西学院大・全学部

問7.下線部h多様な学問に関連する説明として、正しいものを下記より選びなさい、

 ア.河上肇の『貧乏物語』が広く読まれるなど、マルクス主義の影響が強まった。

 イ.和辻哲郎は『善の研究』を著し。独自の哲学体系を打ち立てた。
 ウ.柳田国男は民俗学を確立し『風土』を著した。
 エ.長岡半太郎は強力な磁石鋼である、KS磁石鋼を発明した。

(答:ア〇、※イ×『善の研究』は西田幾太郎、ウ×『風土』は和辻哲郎、エ×KS磁石鋼は本多光太郎)〉


2014立大・現代心理社会コミュ福祉:「

 また、柳田国男が民間伝承の調査研究を通じて、「常民」(無名の民衆)の生活史を明らかにする民俗学を確立し、1910年に刊行された『〈 え 〉』は日本民俗学出発の記念碑的文献となった。」

(答:遠野物語)〉


2013早大・政経

【史料】(1)「朝鮮の友に贈る書」
 この世にはどれだけ多く、許し得ない矛盾が矛盾のままに行われているであろう。私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う。愛国の念を標榜し、忠臣を以て任じるこの国民は、貴方がたよりも、もっと高く反逆の旗を翻すにちがいない。われわれの道徳はかねがね、かかる行為を称揚すべき立場にいる。われわれは貴方がたが自国を想う義憤の行いを咎める事に、矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。

問1.【史料】(1)の著者の説明として正しいのはどれか。


 イ『白樺』に参加し、また生活のためにつくられた工芸品の美を評価し、日本民芸館を創設した。

 ロ 『遠野物語』ほかの作品を著し、日本民俗学の創始者として知られた。
 ハ 京都大学教授として、『貧乏物語』などを刊行したが、のちに共産党員として逮捕された。
 ニ 東京美術学校や日本美術院の創設にかかわり、『東洋の理想』ほかの著作でも知られた。
 ホ 『友情』などの著者として知られ、また「新しき村」を建設するなど人道主義者として知られた。

(答:イ〇柳宗悦 ※ロ×柳田国男、ハ×河上肇、ニ×岡倉天心、ホ×武者小路実篤)〉


2012立教大・全学部(理は除く)

 弥生時代、日本列島に水稲耕作が広がることは広く知られている。『郷土研究』を刊行し、民俗学を確立した〈 え 〉はその伝播ルートとして「海上の道」を説き、中国大陸から南西諸島を経由したルートを想定した。しかしながら、考古学的には華南から朝鮮半島を経由して九州に伝播したとする説が多くの支持をえており、九州から南西諸島に稲作文化が広がったと考えられている。また弥生時代には金属器が使用されるようになるが石器の使用も続いた。」

(答:柳田国男)〉


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