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12月1日

 

かろうじて手は動くけど字がうまく書けない。

 

箸は使えない、スプーンもうまく使えない、

 

自分で体を起こす事は頑張れば出来るときもある。食欲はある。

 

看護士さんに抱えてもらって車椅子に乗って便の時にはトイレまで行けた。

 

先生に言われた事をひでに言わなきゃと思っていた。

 

私なら全部知りたいし、ひでも全部教えてほしいって言ってたし、

 

でもちゃんと全部言えるか怖かった。

 

どうやって言えばいいかいろんな人に相談した。

 

 

 

 

12月2日

 

ひでに告知した。

 

今回の抗がん剤が効かなかったら月単位。

 

月単位の意味が分かっているのか分からなかったけど、そこまで詳しく言えなかった。

 

「大丈夫だよ!治るよー!」とかひでは言っていたけど、

 

私が辛い思いをするのはやだといって泣いていました。私も泣いていました。

 

ひでがやりたい事は全部叶えてあげたい、と思って買ったノートに

 

やりたい事を書いていきました。

 

ひではやりたいことはほとんどなかった。

 

 

 

 

12月3日

 

先生と看護士さんに廊下に呼ばれて

 

「本当に森田くんは頑張っていますね。でもこんなに急激に体が動かなくなったら普通、

 

情緒不安定になったり人が変わったようになっちゃうのよ。

 

なのにいつも笑っていて元気だから大丈夫か心配で。

 

もしかしたらそういう感情を司る脳の部分がおかしくなって来てるのかもしれない。」

 

と本当に心配してくれてたのに、

 

私は、まだ脳はおかしくなってない!それがひでなんだ!

 

と少し腹が立って

 

「大丈夫です!私の前ではちゃんと泣きますし、落ち込んだりしないのがひでなんです!」

 

と言ったけれど今思うとたった二週間で普通に生活できてた体がほとんど動かせなくなって

 

トイレも食事も自分で出来なくなったら平常心じゃいられないはずだ。

 

すごく不安で怖かっただろうしかなり無理してたかもしれないし、

 

先生が言うように脳が不安な感情を感じさせないようにしていたのかもしれない。

 

もっともっとひでの気持に寄り添えてあげれてたらよかった。

 

この頃は便の時にもトイレに行けなくなっていた。

 

看護士の少ない時間にはベッドの上でチリトリみたいなものをお尻の下に当てて

 

ここで便をしてください。と言われる。

 

個室じゃないカーテンだけで仕切られた夕食どきにそんなこと出来ない。

 

長い事頑張っているとチリトリの端があたってお尻が痛くなるし、

 

だいたい寝たまま便なんて元気な人でもかなり腹筋使うだろうし、精神的にも難しい。

 

何度もトイレに連れていってほしいというひで。

 

忙しい中車椅子を持って来てトイレに連れて行ってくれようとする看護士さん、

 

ひでは体が大きいから二人掛かり、

 

「人が足りない時に何人も使って何やってんの!?私一人でやるから仕事に戻ってよ!」と言う人。

 

忙しい時にトイレに連れていってもらう事に申し訳なさを感じているひでの目の前で。

 

「オレは人間として扱われてない」とひでが言った。

 

悔しくて悲しくて家に帰って号泣した。

 

先生に勧められていた個室、料金がかなり高かったけど決断した。

 

 

 

 

12月4日

 

機械浴をした。

 

もう介助がついても普通のお風呂には入れない。

 

久しぶりのお風呂で気持よかったみたい。

 

そして抗がん剤が効いているかどうか調べるMRIの検査。

 

予定の日よりかなり早かった。先生が早くしてくれたんだと思う。

 

もう検査に行くのも車椅子じゃなくてストレッチャー。

 

付き添いで一緒に行って待ってる間におしっこしたくなっちゃって、

 

検査室で尿器を借りた。いつも手伝ってたからちゃんとさせてあげられてよかった。

 

この頃は携帯も、頑張って操作してたiphoneも自分では使えない。

 

食欲はある。

 

もう自分では這いつくばっても外には行けないのに、

 

焼き肉が食べたくて「脱走して食べにいこうかと思った」とか

 

「こっそり食べ物買いにいくかもしれないから、引き出しの小銭入れにお金入れておいてね」

 

というひでに胸が苦しくなった。

 

よしみちゃんが買って来てくれた叙々苑弁当を友達の前で

 

よしみちゃんに食べさせてもらって美味しそうに食べた。

 

次の日から個室に移動できる事になった。

 

ひでは「お金がもったいないから気分転換に3日だけ個室に行こう」と言っていた。

 

 

 

 

12月5日

 

朝から個室に移動した。

 

最初の入院の時に原因不明の高熱で隔離された時と同じ病棟。

 

あの時は電車が止まるくらいの大雪だったな。

 

やりたい事を書くノートを書き進めた。

 

もうちょっと込み入ったこと聞きたかったんだけど、上手く言えなかったから、

 

「もし、あと3ヶ月しかなかったら何したい?もし一ヶ月なら?もし一週間なら?」

 

と書き進めていって、

 

「じゃあもしもの時はどうする?」

 

と聞いて会社の事や保険の事、棺に入れてほしい物の話とか色々した。

 

この時は二人とももしものことをリアルには感じられてなかったと思う。

 

それでも聞いておいてよかった。

 

 

 

 

12月6~9日

 

MRIの結果、抗がん剤が効いてないと解った。

 

もう治す治療ではなくて緩和医療しか出来ないのだ。

 

なんて言ったらいいのか分らないけど絶望みたいな感情の後に

 

私しっかりしなきゃ!ひでが一番幸せなようにしてあげなきゃ!と強く思った。

 

延命処置をどうするのかも再度聞かれた。

 

家族でまとまらないままだったけど、夜に電話がかかって来て

 

「延命処置どうするかご家族で決まりましたか?

 

今夜必要になる可能性もなくはないので、

 

いつでも変える事は出来ますのでどうしますか?」と聞かれた。

 

私は私の判断で「血圧を安定させる薬とかだけは使っても、

 

人工呼吸器や心臓マッサージなど本人が苦しい事はしないで下さい」と言った。

 

今のひではドラマのように人工呼吸器や心臓マッサージで元気に生き返る事はない、

 

ほんの少し命が延びるだけで、意識がなかったとしても相当苦しいだろうと説明されていた。

 

最後に苦しい思いなんて絶対させたくなかった。

 

私は検査の結果を早くひでに伝えなきゃと思って焦っていた。

 

でもどういう風にどこまで伝えるかが家族でまとまらないまま

 

ひでの意識レベルは一気に下がってしまってもうそんな話が出来る状態じゃなくなった。

 

個室に入ってから意識がしっかりしている貴重な日々、

 

ひでといろんな話をゆっくりしたかったんだけど、

 

毎日入れ替わり立ち代わり面会の人が来てくれていて

 

ひでと二人きりになれる時間はほとんどなかった。

 

でもひでが楽しそうだったからいいね。

 

きっと検査の結果遅いなって、どうだったのかなって気になってたと思うのに、

 

全部本当の事ちゃんと教えてって言われてたのに、

 

伝えられなくて本当にごめんなさい。

 

用意周到なひでだから自分の最後に向けて自分で考えたい事がたくさんあったよね。

 

本当にごめんね。

 

 

 

 

 

12月10日↓

 

朝早くひでから電話があった。

 

自分では携帯を触れないから看護士さんにかけてもらったみたい。

 

「今日何時に来るの?早く来て!お願い早く来て!!」

 

どうしたのかと思って看護士さんに変わってもらったら

 

なんか前日の夜から頭が痛くて不安になったのか電話をかけてほしいと頼まれたって。

 

容態が急変したとかそう言う事ではないです。と言われたから安心して、

 

いつもより早く行ったけど超特急で準備した訳じゃなかった。

 

病院に向かう途中に病院から着信があった。

 

朝10時過ぎに病室につくとすぐに看護士さんが来て

 

「今は落ち着いていますが30分くらい前に意識が15分くらいなくなって

 

意識レベルが低下しています。吐き気と頭痛がひどいです。」

 

とか言われてひでの近くに行くとシーツや枕、

 

シャツが嘔吐した物で汚れていてぐったりしてた。

 

この日からひでは普段のひでじゃなくなった。

 

ひでは予感して電話してくれたのにもっと早く来ればよかったと後悔した。

 

ご家族に連絡して下さい。

 

と言われた初めての日。

 

数分起きてる間は少ししゃべって頭が痛い気持が悪い熱い寒いと訴えてすぐに寝てしまい

 

起きている時間が極端に短かった。

 

意識がもうろうとしているみたいでよくわかんない事を連呼していた。

 

ささやくような声でしかしゃべれなかった。

 

昨日まであんなに元気で食欲もあったのに、

 

この日からご飯は出なくなって飲み薬は点滴になって

 

何時間か空けないと使えない鎮痛剤を早く入れてと何回も言っていた。

 

「まだ使えないの」って言うのが苦しかった。

 

誰かと面会できるような状態じゃなかったけど、その日に面会に来てくれた二人に

 

ひでが自分で「会いたい」と言ったので病室まで来てもらうと

 

よっぽど嬉しかったのか頭痛いのも忘れて笑った。

 

この日から私のカレンダーには↓のマークが所々についている。

 

最初は一週間に一回くらいそして数日置き、

 

三日おき、一日おきとだんだん詰まってくる。

 

私がみて明らかに意識レベルが下がってると思った日に着けていた。

 

ひではずっと「お家に帰りたい、治る治療が出来ないならリスクがあっても退院したい」って

 

言っていたから、前のカンファレンスで私は在宅医療のことを聞いてみた。

 

医療ベッドのレンタルや在宅医のことなど自分でもたくさん調べた。

 

だから先生が、「自宅に帰してあげたいなら数時間なら外出できるから、

 

いつ何があるか分らないから出来るだけ早く、明日にでも行ってみますか?」と聞いてくれた。

 

外出中に何かあるか分らないリスクはあったけどお願いしますと言った。

 

その日から私は病院に泊まった。

 

 

 

 

12月11日

 

外出1回目

 

おばあちゃんの家に数時間の外出。

 

誤飲してしまった時のために吸引機の使い方を教えて貰って、

 

救急車のようなストレッチャーごと移動できる車で移動しました。

 

ささやくような声でしかしゃべれないけど、

 

「ビール、ビール」というひでにストローで少しだけビールをあげると「おいしい」と言っていた。

 

目も元気な時と比べるとうつろだし、

 

体が痛いのか気持悪いのか何度も付き添ってくれたシュウに体を持ち上げてもらったりしてたけど、

 

寝坊した建太に「寝坊野郎」とか「ナチュラルヘアー」とか言えるくらい頭は働いていた。

 

会いたい人はいる?っていう質問をした時にほとんどいなかったけど

 

唯一会いたがってた二人が遠くからわざわざ会いに来てくれて、嬉しかったと思う。

 

数時間だったけど、途中で具合が悪くなることもなく無事に病院に戻れてほっとした。

 

 

 

 

12月12日

 

朝ひでに「おはよー、ひでくんおはよう!眠れた?」と声をかけても

 

ボーッと私をみて目を閉じてそのまま寝てしまった。

 

起きてる時間が短い。意識がもうろうとしている。

 

午後に42度の熱が出た。すぐに収まったからよかった。

 

ひでがやりたがってた生前葬。

 

大々的には出来ないけど明日自宅でしようと思って、先生に外出の許可をもらった。

 

 

 

 

12月13日

 

外出2回目

 

「森田英義お別れ会」の張り紙がしてある自宅に寝たまま運ばれて来たひでに

 

「ひでくん!お家だよ!お家に帰って来たんだよ!」って何度も言ったら

 

ボーッと天井を見ながら目をパチパチしてた。

 

前日に声をかけたのに本当にたくさんの人が来てくれて、

 

お別れ会の張り紙や抗がん剤で髪が抜けてきた頭や変わってしまった表情を見て

 

ショックだった人もたくさんいたと思うけど、

 

いろんな人に少しずつストローでお酒を飲ませてもらったり、

 

話しかけてもらったりして、途中で寝ちゃったりもしたけど、

 

もうろうとしてるひでの耳元で「誰々くんだよ!わかる?」って何回も大きい声で私が言うから、

 

「わかるよ!うるさい!誰のことも忘れてないよ!!」って怒られた。

 

言葉も意識も表情も大分落ちて来てるなと思っていた頃だけど、

 

たまに冗談みたいなこと言ったりして最後の方に比べたら全然元気だったなと思う。

 

みんながいる時はいいこにしてたけど、

 

社員や身内だけになると頭や体が痛いと騒ぎ出したり、

 

嫁ちゃん!嫁ちゃん!と連呼したりして、

 

ささやくような声でしかしゃべれないのに声を振り絞って

 

「嫁ちゃんとお風呂に入る!」って言ったのが忘れられない。

 

みんなで笑ったね、でも本当に最後に一緒にお風呂はいりたかったよね。

 

数時間で病院に戻ったら疲れたのかすぐ寝ちゃったけど、

 

夜にひでが暑いとか痛いとか騒いで「嫁ちゃん、まだお母さんいる?」って言ってて、

 

自宅には私の母が来ていたので、「いるよ?どうして?」って言ったら、

 

「ごめんね騒いで、うるさいね。でも声だしてないと辛いんだよ」って言った。

 

最初意味が分からなかったけど、まだ自分が家にいると思ってたみたい。

 

「ひでくんもう病院に戻って来たんだよ、ここにはお母さんいないから大丈夫だよ」

 

って言ったら天井をボーッと見てた。

 

 

 

 

12月14日↓

 

このころから夜中じゅう唸ったり暑い痛いの繰り返しの日が多くなった。

 

引きつった関節を伸ばしてあげたり、

 

体の向きを変えてあげたり結構力が必要で、

 

病院に泊まるので生活も変わってそのとき自分では気づかなかったけど

 

心も体もかなりキツかった時期。

 

毎日新宿のビルの間から登る朝焼けを疲れ果てて見てた。

 

昼にひでが「叙々苑に行きたい」って言い出して

 

後輩が買って来てくれた叙々苑弁当を1、2口食べたけど、

 

「どうしても今叙々苑に行きたい!今行かなきゃもう持たないかもしれない」と言い出して、

 

ひでの予感は当たるんだ。少し怖くなった。

 

今は無理だけど、

 

先生に明日どうしても外出したいと言ってリクライニングの車椅子の車手配して、

 

游玄亭に連絡して事情話して座席の幅計ってもらって、

 

車椅子が入る保証は出来ないって言われたけど、決行しなきゃと思った。

 

 

 

 

12月15日

 

外出3回目

 

どうしても行きたかった焼き肉屋に外出。

 

今までみたいにストレッチャーじゃないから体が痛いとか言ってたけど、

 

車椅子も無事に席に入って、

 

あれが食べたいとかこれが食べたいとかビールとか言って少しずつだけど食べれてよかった。

 

二時間足らずだったけど寝たり起きたりで体も辛そうで、

 

もうこれ以上外出しても楽しめないだろうし、最後になるなと思った。

 

でも途中で「しょうたよんで」って「焼き肉連れていってあげる約束したから」って、

 

ちゃんと解ってる時もあって嬉しかった。

 

 

 

 


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