美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一の、これ基本でしょ その5 Brexitからナショナリズムを考える

2016年10月30日 22時11分08秒 | 由紀草一


当論考には、激動の世界情勢を、しっかりとした思想的足場を確認しながら論じようとする姿勢、良きバランス感覚が感じられます。そこには、学ぶべき多くのことがらがあると感じました。(編集長 記)

***

 日本の知識人にBrexitが気に入らないのは、民主主義が彼らの気に入るように働かなかった以上に、彼らの気に入らないように動いたからでしょう。つまり、ナショナリズムの方向を選択してしまったようなところが。
 日本、だけではないでしょうが、特に戦後日本では、ナショナリズム、いやその前提の国家(nation)は、は悪しきもの・オクレたものの代表でしたし、今もある程度はそうです。私の若い頃でも、「日本のことを考えたら」なんて言ったら、「国家の枠を超えた、世界全体の観点から広く考えるべきじゃないか」なんてよく返されたもんです。まあ、日本にしろ世界にしろ、単なる若造からは無限に遠いところにあり、要するに観念に過ぎないことは同じでしたので、こんな議論もできた、ということなんですが。
 それから、「国境線なんて人間が勝手に決めただけ」とか、「国家がなければ戦争なんてないんだ」とか、よく聞きました。今もありますか? その種の感情を表現したものとして、世界的に有名な代表例と言うと、やっぱりこれでしょうかね。

Imagine there's no countries    想像してごらん 国なんてない、と
It isn't hard to do          そんなに難しいことじゃないよ
Nothing to kill or die for     殺したり死んだりする値打ちのあるものなんてない
And no religion too         そしてまた、宗教もない
Imagine all the people      想像してごらん すべての人が
Living life in peace         平和な生活を送っているところを


 お若い方は知らないかもしれないので一応述べますと、これはロックミュージック史上最も有名なスーパーバンド・ビートルズの、リーダー格だったジョン・レノンというシンガーソングライター(これも古い言葉ですね。自分で作った歌を自分で歌う人のことです)が、ソロになってから出したimagineという曲の、2節目(2コーラス目と言うんですか?)です。
 1971年の発売で、かなりヒットしました。当時は、1950年代に始まった「怒れる若者たち」(angry young men)ムーブメントの末期で、若者による社会運動(日本では全学連とか全共闘とかいう大学生たちが暴れた、アレです)から、精神面に重きを置いたヒッピー文化だのニューエイジとか呼ばれる流派が、アメリカでは盛んになった頃です。レノンはそこで、一方のカリスマに祭り上げられたのです。実際「イマジン」は、この派の主張の一つを、美しく歌い上げています。
  しかし、ここにはレノン個人にとっての危険もありました。カリスマは歌だけではなく、生き方でも理想を体現すべきだ、なんて思われたりしますから。「Imagine there is no possessions(所有物なんてないんだと想像してごらん)なんてこの歌の最後のほうで言っていた男が、ニューヨークの超高級アパートでリッチな生活をしてるなんてインチキだ、許せない」なんて人間も出てきます。レノン殺害犯人の動機については、ジャック・ジョーンズ『ジョン・レノンを殺した男』(堤雅久訳)を読んでもけっこう複雑で、一概にこうだとは言えないのですが、上のような感情も実際に口から出ています。
 それは結局こういうことです。レノンは、国家や既成宗教へのこだわりは最初からなく、当時流行したマントラなんたら言う(今風に言えば)スピリチュアリズムからも早くに醒めて、「平和に生きるただの人間」しかない、という心境に達したらしいのです。
しかし、「ただの人間」が「ただの人間」になれと言われても、けっこう難しい。そこまではあまり思いが及ばなかったようです。
意地悪くみれば、レノンのような、功なり名を遂げた人間だからこそ、「命をかけるに値するものなど何もない」と平気で言えるのではないでしょうか。あらゆる国家や宗教の帰属意識から離れた「一個の人間」には、多くの場合、なんら積極的な意味は見いだせません。
なるほど、安定した生活は、それが失われた人間にとっては、最も切実に希求されるものでしょう。しかし、人間というものはまことにやっかいな生き物で、衣食住がとりあえず充たされたら、往々にして「それ以上」を望んでしまうのです。他の動物との最大の違いは、毎日ほぼ同じように過ぎて行く安全で安定した生活の最中に、「こんな人生、退屈で、惨めだ」なんて考えてしまいがちな独特の、過剰な感性にこそあります。
そこから、レノンのような大スターは、「国家や宗教なんてなくても生きていけると言ったお前がリーダーになって、俺たちをひっぱっていって、新たな『意味』を見せてくれ」なんて要求されることも出てきます。
 ところがレノンのほうでは、「そんなのまっぴらだ、おれはただの男だ、そう生きたいんだ」と、「ゴッド」(ソロになってからの最初のアルバム『ジョンの魂』所収。1970年)という歌の中では言っています。「ただの男」ではなくなったからこそ、それを望む、もう一段上の贅沢。ふざけた野郎だ、と恨まれることも、正当とまでは申しませんが、ありがちではありますね。

 そこで、国家です。これはいわゆるアイデンティティ、ここでは帰属意識と言い換えておきますが、そう呼ばれる巨大な「物語」の、「意味」の供給源であったのだし、今もあり続けています。だからこそ危険だ、とも言えるのですが。
 それで、そもそも、国家とは何か。大昔のことは措いて、近代国家成立の要件を、考えてみましょう。このあたり、後の本論に密接に関係しますが、長広舌を揮いすぎると、何の話だか我人ともにわからなくなってしまう恐れがありますので、思い切って大雑把に、いわば一筆書きで述べます。読者諸賢には、いい加減にもほどがある、と思われましたら、よろしくご叱正のほど、お願いします。
まず産業の進展。そのためには何より、物品の交換がスムースに行われなければなりません。陸路・海路の整備による交通の便はもとより、度量衡、つまりものの単位をできるだけ統一する、そして何より肝要なことが二つ、①統一された通貨(貨幣と紙幣)の体系と②同一の言語=国語、が確立されていなければなりません。
 次の段階、と言って、時間的・構造的な順序は本当はよくわからないのですが、叙述の都合上、次に、と言います、このようにしてできたルールを守らせ、また輸送の途中で物品を奪うような、山賊・海賊などの輩から人々を守る、武装集団とそれを率いる権威ある首領が必要となり、彼らがふつういわゆる権力者となります。
 ところで、この時、往々にして、ルールそのものが彼らから出ているように見えるのが妙ですね。これはまあ、錯覚なんですが。モーゼが「殺す勿かれ」を神の言葉として伝える前から、殺人は悪いことだと考えられていたんでしょうし。しかし、それを守ることは神の意志だとされると、ルールが神聖な権威あるものに見えますし、またその神聖なるルールをもたらした立法者legislatorとして彼らは権威づけられる。この回路が確立されたところに、統治のメカニズムという意味での「国家」が成立します。
  ここではまだナショナリズムは出てきません。それは、一度確立された権威・権力同士の争い、つまり戦争、のために使われるのです。
 同じ過去と文化(箸でご飯を食べる、というような)とを持つ民族という集団は、もちろん事実存在しますが、ここへきてその価値がめいっぱい強調されます。強調されるあまり、同一民族の中にもこれまた現に存在している地域差localityなどは無視され、破壊されたりもします。例えば、日本でも戦前戦後にざらに見られたように、国家の近代化の過程で、地方の荒廃が進む場合があるのです。故郷愛patriotismがナショナリズムの基だというのは、この点では無理を含んでいると言わねばなりません。
 それから、栄光ある国家、それを具体的に、「敵と戦って、敵から守る」という形で、担うべき存在として「国民」はどうか。これによって初めて、食ってチマチマした仕事をして寝るだけの庶民が、巨大な歴史的な存在になれる、ような気がする、という。
 これもまた、くだらないインチキだ、と言う人がいるのに不思議はないです。煽てられて戦場へ行って、病に倒れたら、日本軍に、ひいては日本国から見捨てられ、悲惨な境涯をたどる国民の姿は、大岡昇平「野火」や、それより以前の日露戦争時、田山花袋「一兵卒」などに描かれています。
だいたい、「国家の栄光」そのものが非常に怪しい。ぎりぎりのところ、人々をおだてて、戦場に駆り出すために作られたインチキに過ぎないのではないか、とも思える。そうだとしたら、どんなインチキか。最初に歌を取り上げたので、これが一番端的に表現されている国歌をちょっとみてみましょう。「イマジン」と比べるなんて、あんたヒマジンだね、と嗤われるのは甘んじて受けるとして。
 イギリスの、事実上の国歌(national anthemだから、文字通り国家を讃える歌、です)はGod save the Queen「神よ、女王陛下を救い給え」で、Long live our noble Queen「我らの高貴な女王の命長からんことを」の歌詞など、我が「君が代」に似てますよね。君主の弥栄(いやさか)を祈る、その感情を共有する者たちと信じられている「国民」。逆に言うと、「国民」は、栄誉を担うという行為を通じて、歴史的な存在である君主=国家と一体化し、自らも歴史的な存在となる契機を得る、と。
  なんたることか、そもそも君主とはそれほどの存在か。人民の膏血を絞ってぬくぬくと永らえているのがどこの国でも実相ではないか。それを国家の栄光の象徴とは、ほとんどマゾヒスティックな転倒であり、そんな認識が広く、長く共有されねばならないのだとしたら、それこそ、「国家の栄光」そのものが、根拠のないデタラメであることの何よりの証拠ではないか。
  と、反国家主義者の代弁をしてみましたが、いかがですか?
 その君主国・イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ合衆国はどうかと言えば、国歌で、独立戦争時、一昼夜にわたる敵の猛攻撃に耐えて、砦の上に翩翻と翻るstar Spangled Banner「星煌く旗」=「星条旗」が歌われています。君主はもちろん、ネルソンやウェリントン、それからウェイド元帥などの、将軍名も出てこないところがミソかな、と思います。独立Independenceという形で国家を成立せしめたのが最初から名もなき兵士=国民、いや、「人民」が相応しいかな、であったとされるところが、アメリカという国家の新しさではあるんでしょう。
 では、こういう国家なら正当と言えるのか? そうすんなりとは言えません。独立戦争時だって、「戦争で死ぬくらいなら、イギリスに従属したままでいいや」と思っていた人もいるんじゃないかと思いますが、そういうことは言えなくする、少なくとも非常に言いづらくするのも、ナショナリズムの大事な働きです。つまり個人的な自由は制限する、その力がなかったら、ナショナリズムなんて、いいにつけ悪いにつけ、問題にならないでしょう。
仮に、独立戦争は合理的でもあれば道徳的にも正しかったとしても、その後のアメリカが、大国になるにつれて、いつもそんなに理にかなった行動をしているとは簡単には言えません。ベトナム戦争や第二湾岸戦争を戦った兵士たちは、いかなる栄光を味わったのでしょうか?
 この場合、決して見逃せない要素がありそうです。二十世紀後半のアメリカは、大英帝国に代わる帝国になったのです。四年に一度帝王を選挙で選ぶ帝国。軽くて、無自覚な、だらしない帝国ではあるが、帝国には違いない、とこの国の歴史家兼ジャーナリストのマイケル・イグナチエフも言っています(が、最近はもうそうではない、とエマニュエル・トッドが言っています)。
 「故国を守る」という意味の、普通の素朴なナショナリズムからは離れた、自由と民主主義を「人類普遍の原理」として、世界中に、時には武力を使って、押し付けようとしてきたのが第二次世界大戦後のアメリカです。理念が事実正しくて、武力で押しつけるのも正しい、としたら、アメリカへの帰属意識・忠誠心、という形の、ナショナリズムも正当化されます。一回りして、もとにもどるというわけです。
それが怪しくなっているところが、アメリカにとっても、世界にとっても問題なのです。
   しかしいずれにもせよ、明らかに言い得るのは、大勢の人を現に動かす力という点で、宗教以外の観念(=フィクション)としては、国家しか見当たらない、ということです。国連常設軍なんて、今では話題に上ることすらないでしょう。アメリカのためなら命を懸けるという人は少しはいても、「世界平和」なんて単なる抽象観念のために身命を投げ出そうなんて人はほとんどいないことは、これでもわかります。

 ブレグジットを忘れたわけではないのですが、私の興味は常に原理的なところにありますので、それに沿ったところを言おうとして、前提が長くなってしまいました。
 イギリスが、かつて世界の覇者であった大英帝国の栄光を忘れかね、ヨーロッパ連合の一部であることに甘んじてなどいられない、というのがブレグジットを決めた大きな要因だったとしたら、それは愚かだ、というのもわかります。ただ、自分たちが選んだわけでもない欧州委員会なんたらが決めた決定に従わねばならんなんておかしい、という感情なら、民主主義国家としてはまっとうです。
 そこでブレグジットの是非は次の尺度で考えられなければなりません。EUは、一国のナショナリズムと、同伴関係にある民主主義、それらを超えるだけの価値あるものをもたらすのか、否か。
 まず、産業の進展・大規模化に資すると言う意味では、近代国家成立条件の一つを拡大したものと言えます。通貨の統一は実現しましたし。
 それから、国家エゴイズムと呼ばれるものは、EUにはないのか? あるいは弱まったか? 念のために申し添えますと、それは同胞意識の半面です。異邦人に対する同国民なんですから、その連帯意識の裏には、絶えず連帯の「外部」にいる者たちへの敵愾心、軽くても警戒心があり、つまりは排除の意識と無縁ではあり得ません。だからこそ、戦争で一番有効に使えるわけでして。
 EU内部に限って言えば、エゴイズムは軽減された、と言えるでしょう。欧州連合軍事参謀部(EUMS)、いやそれ以前にNATOがあって、ヨーロッパ各国は、独自に戦争を始める権利こそ手放していませんが(それがなかったら、もはや国家ではない)、緊密な集団防衛体制を構築しており、この内部で戦争が起きることはまずあり得ません。
 それはすばらしい……かと言えば、そもそもどうしてNATOができたのか、誰もが知ってますね。ソ連に対抗するためには、ヨーロッパ各国が協同し、アメリカの力をも借りる必要があったからです。つまり、警戒心・敵愾心はベースの部分にあったわけで。
 EUの中心課題は経済ですね。ECはEEC(欧州経済協力機構)の拡大版ですし、そこに、汎ヨーロッパ的経済活動をより円滑にするために、司法と行政の協力体制を繰り入れたのがEUです(この単純化はあんまりだという場合は……以下前と同じ)。ヨーロッパ全体にまたがる広大な地域で、大規模な経済活動を展開し、早い話がより金を儲けるための機構。そこにはアメリカやら中国に対する、敵愾心とは言わぬまでも、対抗意識を見て取るのは容易でしょう。
 以上から要するに、EUが具体化したグローバリズムは、必ずしもナショナリズムの対抗原理ではなく、超克しようとする試みでもなく、むしろナショナリズムの延長だ、と言い得ます。ただ、図体が大きいと、内部の人には外部が見えにくくなるので、対抗心・敵愾心が具体的に、激しくならずにすむ、ということはあるかも知れません。

 それはそれでけっこうである、少なくとも害はない、としても、ここへきてよく言われるようになったグローバリズムの弱点があります。経済規模が大きくなると、確かに大儲けする人はいるのですが、儲からない人はますます儲けが少なくなる。つまり、貧富の格差が開く、いわゆるマタイの法則、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」事態が露骨に見えるようになっている、と。
  理由はざっと二つ考えられます。
(1)EUに限らず、グローバリズムを牽引しているのは国際金融資本だということ。つまり巨大な投資機関が、広い範囲から金を集めて、これまた広い範囲で使い道を探す、それが国境の壁を低くする具体的な、第一の利点だと考えられています。資本による利益が労働による価値創出を上回るのは資本主義の変わらぬ姿であり、貧富の差が開く要因だ、とはトマ・ピケティ以来常識になったようです。総体としての資本が大きくなるなら、この傾向に拍車がかかるのは全く当然ということになるでしょう。
(2)移民・難民問題。人・モノ・カネの移動を自由にすれば、近代化の過程でたいていの国が経験したように、貧しい地域から豊かな地域への人口の流入は必ず起こります。そこに国家という枠までなくなれば、結果として、豊かな国は、言葉や文化の違う人々との共生を強いられるわけです。「国なんてないんだと想像してごらん」なんて、想像しているだけならいいですが、実際問題として生活の場で「異邦人」と直面したら、そんな簡単なわけにはいかない。その実例は、現在のフランスやドイツ、それからアメリカでも、たくさん見つかるでしょう。
   純粋に経済的、いや経営的な面でも、言葉が不自由でもできるような単純労働は、給料が安くても雇ってもらいたがる移民・難民にまわるでしょう。かくして労働価格が下がり、安い賃金で働かなくてはならない人が増えます。だからこそ、経営者サイドは移民・難民を受け入れたがっているのでしょうが。
   以上の弱点は、単にEU内のグローバリズムがまだ発展途上にあるからで、将来は解消可能なものでしょうか。(1)の問題は、資本主義である以上根本的には解決不可能であるにしても、社会全体が豊かになり、底上げが起きて、下層のほうにも十分な金が回れば、皆さん、文句ないんですよね?
だいたい、18世紀イギリス発の産業革命以来、①産業が大規模化して、多くの商品が生産される→②その商品を買わせるために、労働者の給料を上げる→③以前よりは多くの金を得た労働者=消費者に買わせるために、より多くの商品が生産される、この循環でいわゆる先進国は出来上がりました。トリクルダウン理論がこういう意味だとすれば、長い目で見れば実現しているのです。
 もっと肝心なことは、貧乏人が多少とも金持ちになるやり方を、人類がこれ以外には見つけていないところです。
   ただし、そうであるにしても、今現にある不満をそのままにしておくことはできません。
それにもまして問題だと思うのは、グローバリズムはある面では近代国家の論理を受け継いで発展させたものだとしても、同朋意識という不合理なものは含まないところです。産業の発展・拡大のためには役立ちそうにないですから。
  というところを逆に考えると、国家は、産業の野放図な展開にブレーキをかけることで、逆に資本主義社会を支えてきたのではないか、と見えてきます。保護貿易によって国内の産業を守る、というだけではありません。もっと基本的なところで国民を守る義務が国家にはある、と考えられるところで、です。
  例えば、資本主義である以上、競争は避けられません。そうであれば、競争のルールは公正でなければならない。各種の規制(談合のような、非公式の隠されたものまで含む)によって正常な競争が阻害されているなら、それはできるだけ取り払おう、というのが小泉規制緩和だったわけです。これは原理的にはまちがっていません。
が、競争なら必ず、勝つ人と負ける人が出てきます、ってこれ、トートロジーですね。公正な競争が行われているなら、才覚や努力が足りない事業者が負けるのが、つまり正しいわけです。とは言え、目に余る散財をしたわけでもなく、まずまず普通には真面目に仕事をした人が、競争に敗れた場合、「そんなの、自分のせいなんだら、自分でなんとかするしかない」なる「自己責任論」だけで、すべてすますわけにはいかんでしょう? あまりいい生活はできない、ぐらいはしかたないとしても、食うに困るほど貧窮したら、やっぱり何かのケアは必要だ。そのケアをするのは、国家以外にないんではないですか?
  いやあ、実際の国家は、そんなことやってないんだよ、と言われるかもしれず、その証拠も見つかることでしょう。それでも、最低限、「国はやるべきことをやっていない」と非難することはできます。国際金融資本が相手では、「そんなもん、知らんよ」でおしまいですよね。
そのケアに密接に関連する話ですが、「富の再配分」なる考え方。これも、資本主義そのものからは出てきません。「公正なルール内の競争で、懸命に努力して、たくさんの金を稼ぐことができた。それに対して、国や世間が力を貸してくれたわけではない。それなのにどうして、他人よりたくさん税金を納めなければならんのか」と問われた場合、合理的な答えを出すのは難しいですよね(「いや、答えられる」という方は、是非お聞かせください)。税金が、よく説明されるように、公共物や公共サービスへの対価だとしたら、累進課税はもちろん、課税率なんてのがそもそもおかしい。全員同額払う、でなければならんはずでしょう。
  ここでは「社会の安定」という次元の違うことが考えられているわけです。貧富の差が甚だしいと、貧しい側の不満、その不満は正当な時もそうでないときもあるでしょうが、どちらにしてもあまりに溜まると、暴動などにつながる社会の不安定要素になる。だからそれは宥めなくてはならない。その配慮をするのは国家の義務であり、その義務を全うするために、実はあまり理屈に合ってないようなやり方で税金を取り立てる権力も与えられている、というわけです。
  そして、国家が現に累進課税などを実施できるのも、国家内の、同朋意識があるから です。より正確には、同朋意識があるものとみなしてさしつかえないという意識なら、あるとみなしてさしつかえない、ぐらいのところで、現に政治が行われているからです。
さらに、こういうこともあります。
  福島の原発事故のとき、在日米軍のうち何人かが、被災地の救援と復興に赴きました。「トモダチ作戦」と言われましたね。美談として語られることもあるんですが、作戦中何人かの兵士が被爆して、障害が出たとして、現在東京電力側に補償を求めて訴訟を起こしています。小泉純一郎がわざわざ渡米して、彼らと面会し、「これは見過ごせない」と涙を流したのは、どうでもいいとしまして。
 この事件については、同時期に同じ場所で活動していた日本の消防士や自衛隊員の方々には障害がは出なかったのか、出ても、訴えてはいないのかな、などなど、いろいろ疑問が持たれます。それも置いといて、何人かが被爆したのは事実であるとして、痛烈に感じられたのは、在日米軍は、日本の「トモダチ」であるとしても、「同胞」ではないんだな、ということです。「トモダチ」に期待できることは、限られているのです。

 以上、いろいろ申し上げましたが、「ナショナリズムとグローバリズムのいいところは伸ばして、悪いところは抑えるようにしよう」なんてご都合主義的折衷主義からは一線を画したいために、こうなってしまいました。できるだけかいつまんで申しますと。
  資本主義は、生き延びるためにはどうやら拡大が宿命づけられているらしい。それなら、国境を越えて産業が拡大していくグローバリズムは、ある程度は必然です。そうなればなるほど、国家の重要性は増し、その美点と、それが裏返された弱点も、拡大されて見えてくるようになるでしょう。
 それで、結局どうなるのか? わかりません(笑)。ブレグジットは、反グローバリズムの動きであるのは確かですが、単なる反動なのか、それとも、今後の世界の主流になるのか、つまり、現行のグローバリズムは捨て去られ、新たなナショナリズムの時代になるのかどうか。なかなか見ものではありますね。自分の生活を守るのだけでも、庶民にはなかなかたいへんではありますけど、できるだけ余裕をもって、興味深く見守っていきたいものです。

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