三江線の歴史について 第2話 三江南線お話を中心に | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

3月末で廃止になる三江線の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

 

画像は、Wikipediaから引用

 

歴史に翻弄された三江南線

今回は、三江南線について取り上げてみたいと思いますが、三江北線が戦前の昭和11年頃に開通していたのに対して、三江南線が開通するのは昭和30年3月31日
三江南線【開業】式敷~三次間(14.7km)(旅客営業のみ)【新駅開業】尾関山、粟屋、船佐、式敷

同時に、公示七四号で、三江線を三江北線と改称したと記録が残っています。

 

http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_30.html

弊サイト 国鉄があった時代

 

三江南線も昭和11年には路盤工事が着工され、式敷~三次間は路盤が完成していたにもかかわらず、実際に開業したのは昭和30年3月、さらに口羽まで開業するのは更に八年後の昭和38年6月となってしまったのは何らかの理由があったのでしょうか。

 

その一つには、戦争、さらには戦後の工業発展による電源開発が陰を落としていました。

 

戦後の電源開発と三江南線

 

戦後の重工業の発展は、大量の電力確保が急務となり、当時は大規模なダム建設が計画されていました。

江の川の電源開発は、三江南線の建設にも影響を及ぼすこととなり、翌年の昭和31年11月には式敷~江原間の路盤工事に着手したもにもかかわらず、昭和30年には、旧大和村高梨地区に電源開発会社による高さ94m、 出力9万kWのダム計画が持ち上がりったことで、国鉄の計画も見直しを迫られることになりました。
当初の計画では、計画されていた高梨ダムはその規模が非常に大きく、没家屋7百戸、工事中の三江南線も8kmにわたり 水没すると いうものでした。
地元、羽須美村も集落が水没するわけですから反対しますし、島根県としても、三江線設置を優先との考えから、ダム建設には反対しましたが、昭和30年代は、朝鮮戦争を契機として工業は急速に発達していた頃で、電源開発は国家的急務と言えました。
通産省や経済企画庁は、鉄道計画よりも電源開発と強気で考えていたようで、結局国鉄としても線路の建設は見合わせることとなりました。
昭和33年8月には、運輸大臣が訪問するのに合わせて口羽中学校にて島根県知事や県議を招いて三千人規模のダム反対県民大会を開催されたそうですが、地元住民の意見は二つに分かれる事態になったそうですが、昭和34年10月には、電源開発会社側が、あっさりと計画を撤回、三江線の建設は従来通り行うと決定される
昭和35年10月に工事が再開【詳細な日付等は未確認】されたそうで、昭和38年6月30日には式敷~口羽間 (13.7km) が延伸開業しています。
その後は、国鉄としてはローカル線の建設よりも新幹線建設にウエイトを置くこととなったと言う事情もありました。
当時の国鉄総裁は、十河信二、彼は、ローカル線の建設には消極的であり、鉄道建設に積極的であった、当時大蔵大臣であった田中角栄が国鉄と国が出資する形で鉄道建設公団を創設【現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構】すことになります。
結果的には、三江線の全通は公団移管後の昭和50年でした、既に当初期待された沿線の木材など森林資源の開発はトラックに取って代わられ、陰陽短絡路線としての目的も自動車が発達していたこともあり、あまり期待はされることはありませんでした。

続く

 

こちらのサイトも参考にさせていただきました。

http://ohnan.saloon.jp/diary/sankousen.htm

 

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