Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「アルチンボルド展」(国立西洋美術館)

2017年08月08日 11時37分54秒 | 読書
 先日アルチンボルド展を見た。

   

 西洋美術館のHPでは以下のように記されている。
★ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-1593年)は、16世紀後半にウィーンとプラハのハプスブルク家の宮廷で活躍した、イタリア・ミラノ生まれの画家です。自然科学に深い関心を示したマクシミリアン2世、稀代の芸術愛好家として知られるルドルフ2世という神聖ローマ皇帝たちに寵愛されたアルチンボルドは、歴史上でもひときわ異彩を放つ、宮廷の演出家でした。そんな「アルチンボルド」の名は何よりも、果物や野菜、魚や書物といったモティーフを思いがけないかたちで組み合わせた、寓意的な肖像画の数々によって広く記憶されています。奇想と知、驚異と論理とが分かちがたく交錯するそれらの絵画は、暗号のようにして豊かな絵解きを誘い、20世紀のシュルレアリスム以後のアーティストたちにも、大きな刺激を与えました。

 私はアルチンボルドの名を高めている寓意的な絵画にはあまり惹かれたことはなかった。それらの絵に込められた寓意については今回の展示で初めて知った。
 春・夏・秋・冬という《四季》に象徴させたのが「時間」であり、水・大気・火・大地という《四代元素》に象徴させたのが「世界という空間」であるということをはじめて知った。そしてそれらがそれぞれ対になるようにも構成されていたということも。
 世界を手に入れる、というヨーロッパ世界の貪欲で際限のない好奇心が地球全体を覆い始めることで、博物学的な秩序立てを発展させた。そこに位置づけられるアルチンボルドの写生帖の数々が私の興味をかき立ててくれた。
 そこには芸術としての絵画というよりも、物が存在する形態を取り巻く環境から捉え尽くすという欲求の虜になってしまった人間の執念を感じた。図鑑に描かれた対象物の総体で世界が理解できる、世界を手に入れることができるという誤解が、当時の人びとを突き動かすことが出来たと理解していいのだろうか。
 そのような博物学的な傾向は、18世紀の江戸時代の日本にも現出している。当然ヨーロッパの影響を受けてのことである。しかし物の本質を見極めたいという欲求とその表現の共通性には、何か人間の本質に触れる共通点があるのではないだろうか。
 今まだ読み止しの「江戸の花鳥画」(今橋理子、講談社学術文庫)を思い出しながら、会場を見て回った。

   

      

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