Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「敗戦日記」(高見順)をつらつらと‥

2017年11月21日 19時57分54秒 | 読書
 最近は力のあるものに擦り寄ることに何の後ろめたさを感じない風潮が続く。「寄らば大樹の陰」は、マイナスイメージから肯定的なイメージに転換してしまったようだ。独立自尊の風潮がますます後退していくことを嘆く「ものしり顔」の識者も多いが、擦り寄ることへの批判もまた、どこかでなれ合いの様相もあり、「識者」もまたにわかには信じられない。がヘタに人を信用するとするっと身をかわされて逃げられてしまう。そして騙された人間が悪いような嘲笑が観客席から湧き上がる。
 批判される人にも、批判する人にも安易に組しない方がいいとなってしまうと、これはもう沈黙したまま黙って舞台を眺めているしかなくなる。それではまたつまらない。しかしつまらないということすら発言するのが憚れる世の中になりつつあるとまで言われている。

 10月24日に買った「敗戦日記」(高見順)はベッドの脇に置いてある。この間ベッドの中で読書をする心のゆとりがまったくなくなっていた。翌々日に友人の高木純さんの訃報を聞き、それ以来あまりに慌ただしい一カ月が過ぎた。
 本日実に4週間ぶりに手に取ってみた。1945(昭和20)年1月1日から始まるこの「敗戦日記」、ようやく1月31日まで読み終わった。
 1月15日の項に、こんな文章がある。

 「田舎に徴用官の相談役のようなのがいて、それが鬼の如くにおそれられているとのこ。昔の悪代官の手下みたいに、ちょっとでもその男から睨まれると、たちまち徴用をかけられる。農業の方は徴用がかからないはずだのに、なんとかかんとかいって、ひっぱって行く。そして一方、徴用をかけるぞと嚇して至福を肥やしている。かけられると聞かされた方は、その男にわいろを持って行くのだ。わいろが好きないとさらに嚇かす。尾崎士郎も、疎開していて、おなじような話をした。民間のものがこの頃権力を持たされるようになったが、するとこれは管理よりもひどい官吏風を吹かせる。もとは憤慨していた官尊民卑を逆に発揮する。困ったものだという。民が官につくと、かように悪質になるのは、もとよりその人間にもよるだろうが、それだけ長い間、官尊民卑に民が苦しめられていたせいだとも言える。」

 どこか魯迅の文章なり発言を彷彿とさせる文章である、と感じた。魯迅が格闘した1920年代、30年代の中国の苦悩と、二重写しに見える。敗戦から70年、日本人は何も進歩していないということになる。確かにそのような側面もある。魯迅風に言い換えれば、「人間とはもともとそんなものさ、という諦観を持つほどには絶望などしない。希望を捨てていない」という言い回しになるのだろうか。
 ただし「官尊民卑」というだけの構造で分析が終わってしまっていることにはおおいに不満である。官対民という単純な図式化で世の中を裁断する風潮は不毛である。官を批判すれば、官をたたけばそれで済むのではない。「政治」が「官」を超えられないこと、が問題なのである。
 戦前、政と官の腐敗が進み、その政治不信の隙間を縫うようにして軍部の独奏が始まった。現在の政治不信、政治家への忖度という官の退廃を縫って、「官」がよって立つべき「公」をたたいて快哉を叫ぶ「政治屋」が喝采を浴びてはいないか。
 社会把握・政治批判の頼りなさには目をつむり、高見順という作家の日記には、私もまだ知らない戦争中のエピソードも多く語られていることに注目して読み進めてみたい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。