Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「敗戦日記」(高見順)から 4~6月

2017年12月12日 23時20分22秒 | 読書
 4月から6月いっぱいまでの記述を読んだ。ここには、4月13日、15日、5月24日、25~26日の東京空襲、5月29日の横浜大空襲の日の記述も含まれている。

 空襲が激しくなるに従い、近隣のひとひどの親族や、文学仲間、芸人仲間に被災者、亡くなる人が出てきて、筆は重くなってくる。避難中のさまざまな痛ましい事態や、罹災者の惨状なども記されるようになる。また著しい流言飛語もわざわざ書き記している。
 しかし東京の被災状況を北鎌倉から鉄道に乗って見に行くのだが、浅草や銀座などの飲み屋、娯楽施設など実に細かに記している。私などとてもそのような記憶力が無いのだが、どこか執拗に記すことにこだわっているように思えた。

 そんな中に「爆弾除けとして東京では、らっきょうが流行っている。朝、らっきょうだけで(他のものをくってはいけない)飯をくうと、爆弾が当たらない。さらに、それを実行したら、知人にまた教えなてやらないとききめが無い。いつか流行った「幸運の手紙」に似た迷信だ」「金魚を拝むといいというのだ。どこかの夫婦が至近弾を食って奇跡的に助かった。その人たちのいたところに金魚が二疋しんでいた。そこで、金魚が身代わりになったのだと言って、夫婦は死んだ金魚を仏壇に入れて拝んだ。それがいつか伝わって、金魚が爆弾除けによる、という迷信が流布し、生きた金魚が入手港南のところから、瀬戸物の金魚まで製造され、高い値段でうられているとか。」「焼け出された当座は、さっぱりしたなどと言っていても、やがて無一物になったのだと言って知らない人の家でもどんどん入って行って、国のための犠牲者、罹災者なんだから泊めてくれというのもあるとか。ひどいのになると、焼け残った家から、いろんなものを堂々と持ち出して行く。「焼かれるより、焼け残される方が、こわくなりそうだ」と某君は言っていた。」という記述ある。(4月23日)

 「ドイツ遂に無条件降伏。ドイツが遂に敗れたが、来たるべき日が遂に来たという感じで、誰も別にこの大事件を、口にしない。大事件として扱わない。考えて見とる不思議だ。次から次へと事件が起こるので、神経がもう麻痺している。にぶくなっている。そういうところもあるだろう。自分の家が危うい時に、向こうの河岸の火事にかまっていられない。そういうところもあるだろう。‥」(5月9日)

 「便所に行くと、裏山の向こうの東の空が真赤だ。裏山の頂上に出て「おー」と叫んだ。息をのんだ。東京と覚しいあたり、夏の入道雲のような大きな煙、腐肉のような赤と黒の入りまじったなんとも言えない気味の悪い色をした煙がモクモクとあがっていて、その上の空が地上の焔の反射で真赤なのだ。けれりは芝居の背景かなにかのように、動かない。その動かないのが一段と凄みを加えた。照空燈に照らし出された、小さな点のような敵機が一機ずつ、その巨大な煙の塊の上を行く。高射砲弾がパッパッと炸裂する。焼夷弾がまだ、空の中途でピカッピカッと光って炸裂してね尖った蜘蛛の巣が落ちるような形でゆるゆると地上に迫って行く。音は全然聞こえない。光だけだ。それ故、この世の出来事でないような凄惨な怪奇さざった。地獄、-と言いたいところだが、それでは実感の伴わぬ空疎な形容詞になってしまう。焼夷弾は次から次へと落ちて行く。-下の、すごい火煙のなかの同胞を思う。いたたまれない。-眺めていることにたえられない気持ちになった」(5月25日)

 このような記事の中に混じって次のようなエピソードが綴られている。
「(突然の見合いで)お嫁に行った女中が昨日留守中に訪ねて来て、昨夜は家に泊ったのだが、嫁入り先が仕合せとみえ、なにか言っては朗らかに笑っている。今朝は、家にいたときのように早く起き出て、ごはんをたいてくれた。新郎はどこかの向上に手ているそうだが、どこかと聞いても、よく知らないというまことにのんきな話だが、、そののんきさは、あきれるというよりむしろ羨ましく思われた」(3月4日)
のだが、5月28日の記事では、
「もとの女中が来た。離縁になったという。どうして離縁されたか自分でもわからない、仲人が先方に理由をただしに行くと、「--愛情がなくて、いやだ」という向うの亭主の返事、その母親がまたケロリとした顔で、「気の毒しましたね」そうした話を聞いて、--まるで品物でも貰って、気に入らないからと返して寄越すような話じゃないかと憤りが胸に燃えた。ねえやがまた、不運と思うより仕方がないとあきらめている姿が、可哀そうというより腹がた立った。もって行きようのない腹立たしさだった。「またなんだったら、家へ来なさいと言っておきました」と妻がいう。そいうより慰めようがないのだろう。日本の内部の(その底の方の)暗さ、そういうことを考えさせられた。」
 
 私はふと、「村の家」(中野重治)の中で、転向して出獄した息子に向かって父親は、転向したからには筆を折って百姓になれ、という。息子は、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」とやっとの思いで答える。」という場面があるのを思い出した。
 転向を余儀なくされた中野重治が、日本の近代化が置いてきぼりにしてきた封建的な社会との格闘に軸足を移して行く転機ともなった作品と云われている。高見順の提示したエピソードはこのようなものとも照応するものと思えた。それを中野重治と同じく転向体験をもつ高見順がこの日記以降、この社会の開削をなし得たのか否かは私は、高見順の小説世界に足を踏み入れていないのでわからない。

 6月25日には「ラジオの大本営発表で沖縄の玉砕を知る。玉砕--もはやこの言葉は使わないのである。牛島最高指揮官の決別の辞、心をえぐる」とのみ記されている。ドイツ降伏のときの感想のように「神経がもう麻痺している」のか、言葉を失ったのが、「対岸の火事」だったのか。文面からすると「言葉を失って」しまったように思える。


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