今朝の寝覚めは快調。昨日のちょっとしただるさはない。朝から会議の資料作り。半分はどうやら終わった。あとは夕食後にしてコーヒータイムと軽いウォーキングタイムとしたい。
★水洟や鼻の先だけ暮れ残る 芥川龍之介
この芥川龍之介の句、実は「自嘲」という前書きがあり、辞世の句である。昔はじめてこの句を読んだのはもう50年も前のことだと思う。筑摩書房から廉価版の個人全集が出ていた。芥川龍之介、森鴎外、太宰治だったと記憶しているが、芥川龍之介を購入してわからずながら読んでいた。
初めてこの句に接してよくわからなかったと思う。情景が浮かんでこなかった。風邪をひいて鼻の頭が赤くなっていること、いくらかんでも止まらない水洟に対する苛立ち、そして寒い夕陽の情景、これらが情景として頭の中に浮んでくるが、「鼻の先だけ暮れ残る」というくだりの具体的な情景、意味合いがわからなかった。
それでもとても惹かれた句である。雰囲気として「良くわかる」のだが、具体的なイメージがついてこない、こんな感じである。ネットで検索してみたら、「すべてが夕闇に包まれる中、風邪をひいて少し赤みを帯びた鼻の先、そこだけがポツリと赤く、暮れ残っている「鼻」は、鼻にかける/鼻を高くする」など、自我、自尊心を暗示する。それも、病める鼻、道化のピエロのように赤い水洟である。前書きには「自嘲」とあり、そんな己をあざ笑っている。何もかも見えなくする「闇」。生きる意味も見えなくする、得体の知れぬ暗いものを、彼は人生に感じていた。今や彼のもとに残るのは、風邪ひきの水洟、病める自尊心ばかり。だが、それさえ、「闇」に消え入ろうとしている」という解説に行き当たった。
正面から夕陽に照らされているとき、赤く炎症を起こしている鼻の先が、太陽の放射熱を浴びて敏感に暖かみを感じているのであろう。そして両目を凝らすと赤い鼻の頭を見ることができる。その赤い鼻先と冬の夕陽が共鳴している。冷たい風が顔にあたり、赤い鼻先にしみる。
情景としてはこんな感じで解釈すればいいというのが、最近ようやく理解してきた。この解説では「鼻」から「自尊心」を引き出している。なるほどとようやく少しわかった気持ちになった。「自嘲」という前書きと繋がる。
しかしなぜ辞世の句なのか。病める精神、自尊心との格闘の割には、あっ気ない「辞世」であり、自分の生き様の結末のつけ方だという思いがつのる。それが「病い」の病いたる由縁なのであろう。「生」にまつわる「病い」が、たかだか鼻っ風邪であるということは「自嘲」なのであろう。そんな結末のつけ方、ここまで芥川龍之介は自身を皮肉っぽく見ていたのか、自身をそこまで戯画化していたのかという気分になる。
気持ちとしては、とても寂しい気持ちになる句である。このままでは、あまりこの句に触れずに芥川の作品に接したい気持ちがつのる。
そして、というべきか、だが、というべきか、芥川龍之介の命日は7月24日と真夏なのである。これが辞世の句とされたのは、山本健吉の解説によるものである。たぶん、芥川龍之介はだいぶ以前に作ったこの句を辞世の句として人に託したことが想定される。
ここで山本健吉は芥川龍之介にとって「鼻の先」は「動物的なものの」の暗喩であるかのように記している。私の理解では「生命力」の象徴なのかもしれない。確かに「鼻」に出てくる「禅智内供」のように「鼻」が「生」そのもののように扱われる場合もある。
「病い」の人にとっては、たかが鼻、ではなく「鼻」に固着してしまう自身の観念がどうしようもなくつらかったという風に考えれば、少しはわかるような気になってくる。そんな病いが芥川龍之介は許せなかったのだろうか。
いろいろと想像してしまう「辞世」の句である。
★水洟や鼻の先だけ暮れ残る 芥川龍之介
この芥川龍之介の句、実は「自嘲」という前書きがあり、辞世の句である。昔はじめてこの句を読んだのはもう50年も前のことだと思う。筑摩書房から廉価版の個人全集が出ていた。芥川龍之介、森鴎外、太宰治だったと記憶しているが、芥川龍之介を購入してわからずながら読んでいた。
初めてこの句に接してよくわからなかったと思う。情景が浮かんでこなかった。風邪をひいて鼻の頭が赤くなっていること、いくらかんでも止まらない水洟に対する苛立ち、そして寒い夕陽の情景、これらが情景として頭の中に浮んでくるが、「鼻の先だけ暮れ残る」というくだりの具体的な情景、意味合いがわからなかった。
それでもとても惹かれた句である。雰囲気として「良くわかる」のだが、具体的なイメージがついてこない、こんな感じである。ネットで検索してみたら、「すべてが夕闇に包まれる中、風邪をひいて少し赤みを帯びた鼻の先、そこだけがポツリと赤く、暮れ残っている「鼻」は、鼻にかける/鼻を高くする」など、自我、自尊心を暗示する。それも、病める鼻、道化のピエロのように赤い水洟である。前書きには「自嘲」とあり、そんな己をあざ笑っている。何もかも見えなくする「闇」。生きる意味も見えなくする、得体の知れぬ暗いものを、彼は人生に感じていた。今や彼のもとに残るのは、風邪ひきの水洟、病める自尊心ばかり。だが、それさえ、「闇」に消え入ろうとしている」という解説に行き当たった。
正面から夕陽に照らされているとき、赤く炎症を起こしている鼻の先が、太陽の放射熱を浴びて敏感に暖かみを感じているのであろう。そして両目を凝らすと赤い鼻の頭を見ることができる。その赤い鼻先と冬の夕陽が共鳴している。冷たい風が顔にあたり、赤い鼻先にしみる。
情景としてはこんな感じで解釈すればいいというのが、最近ようやく理解してきた。この解説では「鼻」から「自尊心」を引き出している。なるほどとようやく少しわかった気持ちになった。「自嘲」という前書きと繋がる。
しかしなぜ辞世の句なのか。病める精神、自尊心との格闘の割には、あっ気ない「辞世」であり、自分の生き様の結末のつけ方だという思いがつのる。それが「病い」の病いたる由縁なのであろう。「生」にまつわる「病い」が、たかだか鼻っ風邪であるということは「自嘲」なのであろう。そんな結末のつけ方、ここまで芥川龍之介は自身を皮肉っぽく見ていたのか、自身をそこまで戯画化していたのかという気分になる。
気持ちとしては、とても寂しい気持ちになる句である。このままでは、あまりこの句に触れずに芥川の作品に接したい気持ちがつのる。
そして、というべきか、だが、というべきか、芥川龍之介の命日は7月24日と真夏なのである。これが辞世の句とされたのは、山本健吉の解説によるものである。たぶん、芥川龍之介はだいぶ以前に作ったこの句を辞世の句として人に託したことが想定される。
ここで山本健吉は芥川龍之介にとって「鼻の先」は「動物的なものの」の暗喩であるかのように記している。私の理解では「生命力」の象徴なのかもしれない。確かに「鼻」に出てくる「禅智内供」のように「鼻」が「生」そのもののように扱われる場合もある。
「病い」の人にとっては、たかが鼻、ではなく「鼻」に固着してしまう自身の観念がどうしようもなくつらかったという風に考えれば、少しはわかるような気になってくる。そんな病いが芥川龍之介は許せなかったのだろうか。
いろいろと想像してしまう「辞世」の句である。