Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「横浜美術館コレクション展2016年度第1期」

2016年05月06日 14時14分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 「横浜美術館コレクション展2016年度第1期 しなやかさとたくましさ-横浜美術館コレクションに見る女性の眼差し」を5月1日に見てきた。
 「アメリカ写真」と「イサム・ノグチ」は疲れたのでこの日は通り過ぎた。次回には見たい。
 「しなやかさとたくましさ」という括りで横浜美術館の収蔵品を5つのコーナーに分けて展示してある。その全体的なコンセプトは、次のとおり。

 横浜美術館コレクション展2016年度第1期では、この夏開催される企画展「メアリー・カサット展」(会期:6月25日~9月11日)に連動して、女性アーティストの活躍に焦点をあてます。
 今、もし画家になろうとしたら、美術を教える学校への進学を思いつくかもしれません。しかし、明治22年開校の官立の東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部の前身)には、開設当初、女性の入学者はいませんでした。つまり女性というだけで画家を志すのが困難な時代もありました。
 日本における女性洋画家の草分け的存在、渡辺幽香は、五姓田芳柳(初代)の娘で、草創期の洋画家、五姓田義松の妹です。恵まれた環境も手伝って、絵画制作への強い意欲で画家となった幽香は、メアリー・カサットが、世界コロンブス博覧会(1893年、シカゴ)で壁画を描いた婦人館に、日本を代表する女性画家の一人として《幼児図》を出品しました。五姓田派などの画家たちの作品と併せて、幽香の生きた時代の作品をご紹介します。
 また、コレクションにおける海外女性作家の作品から、メアリー・カサットの母子像の意味をあらためて考える作品も展示しています。
 戦後日本においては、美術界に羽ばたく女性たちが数多く登場します。多くの女性作家たちは、人としてたくましく生き抜く力強さとしなやかさを、作品に託していると言えるでしょう。特有の美意識で自らの表現を追究する女性作家たちの多彩な表現を、コレクションの中からご覧いただきます。
 写真展示室では、アメリカ出身のメアリー・カサットに因み、1860年代から1940年代までのアメリカ写真の展開を特集します。


 5つのコーナーごとにさらに細かなコンセプトが記されているが、これは写真を参照。
 目についた作品からいくつか。



 まず遠藤彰子「街(street)」(1983)。これは以前にも取り上げたことがあり、懐かしい思いで取り上げた。不思議な都市風景で戦前に空想された未来都市を1980年代の状況を踏まえて再構成したような都市風景である。この不安定感、危うさに惹きつけられる。空中を走る道路には柵がなく、一歩間違えれば転落する危険の中を歩いている。左下に道路の端っこで柱に寄りかかっている少女はつま先立ちの不安定な格好で、ちょっと間違えれば転落しそうな状況である。右上の疾走している電車はよく見るとかなり古そうな形態ではあるが、もっと気になるのが異常に長い桁をもつ高架軌道である。こんなに長くて細い柱1本だけで支えられている橋脚の無い橋はあり得ない。あってもすぐに崩壊する。日本の都市の構造の危うい歴史的脆弱性の暗喩とも取れる。この絵が1989年の作品ということが不思議な画家の不思議な感性を見る思いがした。何の暗喩なのか、もっと探りたいとも思っている。



 奥山民枝「山夢」(1991)。これはブロッケン現象を描いたのかと初めは思った。次に儚い自然の暗喩としてのブロッケン現象を使ったのかと感じた。そうして虹のような円弧が次には渦巻きに見えてきた。霧の中の山行の不安を思い出した。「山夢」という題であるが、不安の螺旋的な亢進というところで私の想念は止まっている。そして背景の上部に見える2本の柱のような黒い物体が何をしめしているのか気になってしようがない。不思議な作品である。



 江見絹子「土」(1955)。この作品は不思議な吸引力がある。見ていて次の作品に移ろうとするのを引き留める何かを感じた。具体的にはわからない。「土」という題から何を想像したらいいのだろうか。右下から右上にかけての形態は樹木と葉ないし花にも見える。バナナ、つむじ風、農具‥。左右下にある形体が似てもいる。しかし形体の絵解きをしても意味はないと思う。どこか動物の血をも思い出させる赤茶色と白っぽい色面。色面に着目してもその意味するところも想像できない。形と色面の不思議な配置から体に共鳴するリズムは確かに感じる。この作品に私は何かの反応をしている。



 川崎麻児「静かの海」(1989)。この作品も以前に取り上げたことがある。好きな作品である。たぶん海の上に漂う満月。満月と海の関係からはこんな暗い状況でこの高さで海の上に漂っていることがあるというのは季節的に冬以外はないと思うが、絵の雰囲気は暖かさがある。その暖かさをそれほどの違和感はなく、受け入れてしまう。
 水平線に水蒸気が立つように見える。大気の揺らぎを生命の象徴として描いていると感じた。海から生命が生まれるように現在も何らかの生命体の誕生の可能性を靄ったような大気に感じる。
 2013年の4月にこの作品を取り上げて「静かに何かを考えさせる内省的な絵だと思う。月の光と思しき光の柔らかさと、それが波に反射する様子がとても静謐だ。現代美術のどちらかというと精神を気ぜわしく刺激する傾向とはまったく正反対の指向を好ましく感じた」と記載した。今でもそう思う。

   

 この2枚、内田あぐり「栄光の門」(1992)、「老梅図」(1992)が同じ画家の作品かと知ってびっくりした。しかも同じ年に絵が描かれている。「栄光の門」はキリスト教の祭壇画の伝統に基づく構図であり聖母マリアのアトリビュートである白い百合を描きつつ、女性のヌードに基づくなど大胆である。この作品と伝統的な画題に基づく「老梅図」。画題が洋の東西という距離を持ちながら、伝統的なものである。両者の距離と共通するもの、なかなか刺激的である。



 荘司福「原生」(1984)、「春律」(1986)。ともに以前取り上げたことがある。ともに好きな作品だけあって、最後のコーナー「5.日本画に見るそれぞれの眼差し」の中ではひときわ目立っていた。他の作品は目に入らなかった。
 むろん実写に基づく写生画ではないと思われる。作者の中で再構成された風景であることは間違いがない。しかしこの作者のきりっとした姿勢が想像できるような緊張感あふれる風景である。時代や生に対する透徹した厳しい目を感じる。風景画というものにはこのような緊張感を私は求めてしまう。
 いつか荘司福という画家の作品集を手に入れたいと思っているが適わない。神奈川県立美術館鎌倉で一度展覧会が行われた。その時の図録を鎌倉館の閉館になる最後の週に行って1冊だけ見かけたのだが、カードが使えなく、持ち合わせが無くて購入できなかった。返す返すも残念なことをしたと思っている。



 松井冬子「世界中の子と友達になれる」(2002)。横浜美術館で初めて松井冬子の展覧会を見た時に印象には残っていた。しかしこの藤の花の先端に潜む大量の蜂、少女の足先の痛々しい赤い腫れに、少女が垣間見る世界の残酷で無慈悲、無惨で容赦のない在りようが象徴されているように見えて、その痛々しさにちょっとひいたことを思い出した。少女が左端に寄っている構図に安易な希望や救いを拒否しているようなことを感じて、いい作品だと最近は思い始めている。
 これらの作品からは私は取り立てて女性性を感じることは無かった。敢えて女性性にこだわる視点とは何なのか、男である私の気がつかないところは是非何らかの示唆を受けたいと思っている。そんななか、遠藤彰子、内田あぐり両氏のアーティスト・トークがそれぞれ6月5日(14時30分~15時30分)、7月16日(14時~15時)があるという。また来週以降金曜日に学芸員によるギャラリートークも8回ほどある。是非とも参加したいものである。

            


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