Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

公文書の改竄・捏造

2018年03月13日 13時22分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 財務省の公文書の改竄・捏造問題が政権を揺るがしている。およそあってはならないことがまかり通っているこの5年間の政権のひどさの行きついた先だと私には思われる。
 感想をいくつか。

 まずは、当初の決裁文書に詳細に綴られた詳細さ、特例的な措置の理由の記録は、内部告発的ですらあると感じた。
 通常は「現行の政令・規則・基準・要綱・要領」などの該当項目を列挙して、どれに該当するか記すだけである。あとは計算式を示して、「以上の措置を講じます」として、決済に回す。
 特例的な措置を取らざるを得ない場合でも、「議員や関係団体」との詳細な交渉経過は普通は記さない。「申請者の意向、地元の要望を鑑み」「○○課との協議の結果」として結論だけを記す。経過を記すとしたら、「申請者の要望の概要(それも該当の項目表示のみ)とそれを受けた日」、「要望について○○課との協議項目と協議した日」程度である。
 これほどまでに詳細に記載しているということは、如何にその要望が取り扱い規定などから外れたものであったか、そして圧力が如何に強く理不尽であったかを、どうしても記録に残したかったという担当者の思いが詰まっていると、私には思えた。行政の公平・公正へが大きく圧力でゆがめられたことに対する怒りと、圧力の存在を匂わせたかったのではないか。
 そしてそれが決裁文書として回ってきた段階で、近畿財務局の上司が決裁印を押しているということは、局内でもその理不尽な圧力が共通認識であったことが滲んでいる。それは外部圧力だけでなく政権中枢や省の中枢からという内部からの圧力をも窺わせる。担当者も局内も「こんな特例措置をせざるを得なかったのは、われわれが法や基準を捻じ曲げたのではない」という抵抗の叫びにも私には思える。

 そして財務大臣の開き直りと醜怪さもまた際立つ。企業であれ、組織であれ、自らの名が具体的に俎上に上っている犯罪行為の調査チームは、その名が載っている人を外すのが公平さ、公正さの担保の必要条件である。
 国会に提出された公文書が改竄・捏造された疑いがあるならば、それを調査し問題点を正し、再発を防止するのは国会議員の仕事である。あるいは国会の承認を受けた第三者のチームが行わなければならない。これが社会常識ではないか。

 さらに「忖度する奴より忖度された方が悪い」などというツィッターも見た。自分の言葉なのか、他者からの引用なのか判然としない。しかしことは冗談ではない、行政がゆがめられたのである。「忖度」するように仕向けた強引で理不尽な圧力というものが背後に控えているから「忖度」するのである。
 むろん議員や政治家などからの問い合わせは、公平・公正の観点から聞くべき意見も多くある。行政担当者が見落としていた視点も提示してくれることは否定しない。耳を傾けるべき意見ならば勉強になる。しかしたんなる横やり、理不尽との葛藤が如何に公平・公正を傷をつけてきたか、徒労ともいえる労力が費やされている。強引な押しの強さが「政治力」と勘違いしている議員が多いのも現実である。
 だが、権力を持つものは常にそのような忖度される側に立たされる。そして忖度されてしまうことがある。政権担当者でもない政治家、あるいは政権とおなじ党派に属していることを利用する者が、官僚や公務員に理不尽な圧力をかけるのを如何に阻止するか、民主主義とはそれらの克服の歴史でもある。
 文書管理の徹底も、さまざまな制度的な監視も必要であり、いろいろな機構もある。同時に開かれた行政や政治のための方策もある。同時に「報道の自由」という名の諸刃の刃のようなものもある。選挙もあり、国会もある。もともと民主主義とは時間も労力もかけなければならないものである。
 「忖度」させるように振る舞っている現政権のトップが「ハニートラップ」の被害者では断じてない。このようなお花畑のような意見が出てくる日本の政治構造はどこまで非民主な社会なのだろうか、近代国家のにがい過ちの歴史の克服が不十分なのだろうか、と暗澹たる気持ちになる。


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