資料作りの作業を終了してから、「『快楽の園』を読む-ヒエロニムス・ボスの図像学」(神原正明、講談社学術文庫)を読んでいる。本日ようやく最後まで読み終わりそうである。ずいぶん時間がかかってしまった。
私の期待した内容とは違って、論理的な推論ではなく、さまざまな解釈のいわれが列挙されている。そのいわれの紹介である。矛盾するものも、あまりに飛躍的過ぎるようなものも、著者の眼につく限り列挙しつくそうとするようだ。
このヒエロニムス・ボスの描いた作品の図像学的解釈は、未だ未確定でさまざまに解釈されているということの水準が理解できる。日本の現代の言葉でいえば、ダジャレのような当時のさまざまな言語のごろ合わせ的な解釈から、聖書学的な解釈などなど等価に、並べられている。悪く言えば「わたしにとってはこれと思う」という自己主張は後ろに隠れてしまっている。
もっとも確定していないからこそ、このような書物が存在するのであろう。一筋縄では「わかった」ことにはならないヒエロニムス・ボス、あるいは当時の「絵画」の位相がある。
時々ウトウトとしてしまうのは、私の理解力の貧困ということで許してもらおう。
私の期待した内容とは違って、論理的な推論ではなく、さまざまな解釈のいわれが列挙されている。そのいわれの紹介である。矛盾するものも、あまりに飛躍的過ぎるようなものも、著者の眼につく限り列挙しつくそうとするようだ。
このヒエロニムス・ボスの描いた作品の図像学的解釈は、未だ未確定でさまざまに解釈されているということの水準が理解できる。日本の現代の言葉でいえば、ダジャレのような当時のさまざまな言語のごろ合わせ的な解釈から、聖書学的な解釈などなど等価に、並べられている。悪く言えば「わたしにとってはこれと思う」という自己主張は後ろに隠れてしまっている。
もっとも確定していないからこそ、このような書物が存在するのであろう。一筋縄では「わかった」ことにはならないヒエロニムス・ボス、あるいは当時の「絵画」の位相がある。
時々ウトウトとしてしまうのは、私の理解力の貧困ということで許してもらおう。