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給料上がらず水兵蜂起!英国発「スピットヘッドとノアの反乱」とは?

1797年(日本では江戸時代・寛政九年)4月16日、イギリス海軍の停泊地・スピットヘッドで水兵たちの反乱が起きました。

一般的に「スピットヘッドとノアの反乱」と呼ばれます。

停泊地というと本国から離れたイメージですが、スピットヘッドはブリテン島の南部、ロンドンから1時間半ほどの地点。
近隣の著名な都市としては、ポーツマスが挙げられますかね。

日露戦争の講和条約である「ポーツマス条約」が結ばれた場所の近くということであり、イギリス海軍の拠点でもあります。
日本でいえば、東京と横須賀くらいの距離・立ち位置という感じでしょうか。

そんあ首都にとって目と鼻の先に等しいそんな場所で、なぜ反乱という物騒な事件が起きたのでしょう。

 

航海が長期化されるようになるも、給料据え置き

この一件、水兵たちが生活環境と給料の改善を求めて起こした、いわゆるストライキに近いものでした。

軍といえば「生活が保証される代わりに荒事を請け負う」という仕事の筆頭。
それで生活が苦しいというのもピンときませんね。

しかし、それはごくごく近年の話です。

18世紀当時のイギリス海軍は、今日からでは想像もできないような劣悪な環境にありました。
イギリスという国の当時の状況が大きく影響しています。

水兵の賃金が定められたのが、当寺から140年ほど前のことでした。
その間に七年戦争に勃発。
1756~1763年、オーストリアvsプロイセンの対立がヨーロッパ諸国に広がり、物価と税金の値上げが起きたのです。

インフレになって嵩む生活費。
しかし、増えない給料。
これでは、生活が苦しくなるのも無理はありません。

また、船というものは航海中に船底に海藻や貝がついてしまうと速度が落ちるため、定期的に港に寄って掃除をしなくてはなりません。

これは軍艦も同じ状況です。
しかし1761年頃から船底に銅を貼り付けられるようになり、海藻や貝がそれまでよりもつきにくくなったため、掃除のスパンが長期化しておりました。

掃除の回数が少なく済むということは、つまり船が港に立ち寄る回数が減り、乗組員の気晴らしもできません。

これは水兵たちにとっては看過できない問題でした。

 

賃上げや士官の更迭などを海軍本部にかけあうと

当時のイギリスは、北米などの超長距離航海を必要とする海外植民地への航海が増えておりました。

にもかかわらず、
給料は上がらない、
しかも気晴らしすらできない……
とあれば、当時の水兵たちが、いかにストレスの多い状態にあったか、何となくわかりますよね。

もちろん一気に反乱などが起きることはなく、不満はポツリポツリとは出ており、軍も議会もここで気づけば問題なかったかもしれません。

こうした段階でマトモに取り合ってくれなかったからこそ、「現場vs経営者」という争いが起きるものですよね。

そんなこんなで我慢を続けた水兵たちが、ついにプッツンしてしまった結果がこの日の反乱というわけです。

といっても、彼らも最初から荒っぽい手段に出たわけではありません。
兵のうち何人かの代表が、海軍の本部に賃上げや兵に嫌われている士官の更迭などをかけあいました。

スピットヘッドとノアの反乱・会議の様子を描いた風刺画/Wikipediaより引用

その交渉が決裂。
反乱という形になってしまいました。

 

交渉決裂で実力行使! 余波は意外なカタチで

このとき他の水兵たちはいつも通り勤務していました。
が、交渉が決裂したことを知って、更迭候補だった士官を船から追い出すなどの実力行使に出ます。

幸い、死傷者が出る前にリチャード・ハウ提督が仲裁にやってきたため、大事にはならずに済んでいます。

ハウ提督はこの頃70代になっており、セミリタイア同然の状態でしたが、フランス革命戦争などで戦果を挙げ、水兵たちに英雄視されていたので、この役に選ばれたのでした。

誰かに媚びるようなことをせず、公平な人物だったことも人気の一因でした。
いつの時代も、そういう人が一番信頼されますよね。

ハウ提督は反乱に加わった乗組員を不問にすることと、士官の更迭、昇給を約束して事を収めました。
血が流れなかったこともあってか、この反乱は「スピットヘッドの微風(Breeze at Spithead)」とも呼ばれたそうです。

しかし、その微風は思わぬ動きを生み出します。

スピッドヘッドの反乱から約1ヶ月後、今度はテムズ川河口の停泊地・ノアでも反乱が起きたのです。

 

ノアの水兵たちはクーデターと見なされた?

テムズ川といえば、ロンドンを流れる川として有名ですよね。
ノアは文字通りロンドン、そしてイギリスの海の玄関口ともいえる場所です。

ノアの水兵たちはスピットヘッドの兵たちと違い、統一されていませんでした。

また、海軍本部への要求も多すぎました。
昇給と反乱に対する恩赦はともかく、議会の解散やフランスとの講和まで含まれていたのです。

これでは労働運動というより、政府転覆を狙うクーデターとみなされても仕方ありません。

当然海軍本部は激怒。
反乱側もそう簡単には諦めません。
ロンドンに入ろうとする商戦の入港を邪魔して、港を封鎖した上に船を占拠してしまったのです。

あまりに過激化したため、反乱に加わった水平の中にもついていけなくなる人が出てきて、余計に統率が取れなくなっていきました。
海軍本部と政府は、政治的な色が強くなってきたノアの反乱者を兵糧攻めにします。

首謀者たち30人は直ちに罪を問われ、物理的に吊るされました。
他に関わりが強いとみなされた者は鞭打ちや収監、あるいはオーストラリアへの流刑になっています。

その代わりに、関わりが薄いとされた乗組員たちは不問にされました。そこまで厳密にすると、あまりにも数が多すぎて、処罰できなかったのかもしれません。

先述の通り、この頃はフランス革命戦争の真っ最中です。
現場の人を減らすことは軍事力低下を招きかねません。

1797年には西インド諸島やアイルランド、アフリカ・喜望峰でもイギリス海軍の反乱が起きています。
もしもこれらの反乱に対する処分が遅れていたら、イギリスはフランス革命戦争や、それに続くナポレオン戦争に手を突っ込めなかったかもしれません。

 

「普段からストレスを溜めない」ように

その後、イギリス海軍では兵の待遇改善が図られました。

まず手がつけられたのは、兵一人一人に配給される食料の改善です。
それまでは最低限のパンや肉・豆・乳製品しか配られませんでしたが、少しずつ調味料や酒・菓子・紅茶などの嗜好品が加わっていきます。

「現在のイギリス軍のレーションには紅茶が含まれている」とか「戦場でもティータイムを欠かさない」といった話もありますね。
あれは余裕ぶっこいてるとかふざけているわけではなく、彼らなりのストレス管理なのです。

また、船の構造も改善され、居住性が重視されるようになっていきました。

イギリスの植民地が文字通り世界中にあったことは皆さんご存じの通り。
飛行機がなかった頃、植民地への移動は基本的に船です。

となると、基本的にイギリス海軍は超長距離航海がデフォルトということになります。

寄港地で気分転換をすることはできるにしろ、あまり頻繁なものでもありません。
「普段からストレスを溜めない」ように、食事や船内の居心地を改善するのが手っ取り早いということになるわけです。

イギリスは現在社会福祉が手厚い国の一つとしても知られていますが、早い時代にこうした問題を経験していたからこそ、対策を講じ始めるのも早かったのかもしれませんね。

それがまた別の問題を起こすことにもなっているわけですが……。

長月 七紀・記

【参考】
スピットヘッドとノアの反乱/Wikipedia
近世イギリス海軍の食生活/Wikipedia

 



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