ユリシーズ・グラント/Wikipediaより引用

アメリカ

アメリカ大統領経験者で初めて来日したユリシーズ・グラント

歴史に名を残した人や、将来そうなるであろう人のことを、我々凡人は神格化しがちです。
英雄視ともいえましょうか。

しかし、傑出した才能や脳力を持っていても人は人ですから、短所も不得意な分野もある。

1822年(日本では江戸時代・文政五年)4月27日は、後に第18代アメリカ大統領となるユリシーズ・グラントが誕生した日です。

「英雄」と呼ばれることもありますね。
大統領で英雄というと何だかデキすぎのような気もしますが、この方、実はアメリカ大統領経験者で初めて来日された方でもあります。

一生を追いかけてみましょう。

 

名前を間違われてそのまま使うようになっただと!?

彼の生まれたときの名前は「ハイラム・ユリシーズ・グラント」といいます。
生まれた場所はオハイオ州クラーモント郡で、翌年にはオハイオ州ブラウン郡に引っ越しているため、彼にとっての故郷はそちらだったでしょうね。

17歳のとき、

出身の下院議員からニューヨーク州の陸軍士官学校に推薦され、公の仕事に踏み出していきました。

が、このとき名前を間違えて登録されるというアクシデントが発生。
「推薦したくなるような相手の名前間違えんなよ」とツッコミたいところですが、その間違えられたほうの名前が、今日知られている「ユリシーズ・S・グラント」でした。

また、彼自身がこの名前を気に入ったため、その後はこう名乗るようになったといいます。親からもらった名前をこういった理由であっさり変えてしまうというのも、なかなか豪快なことですね。

「ユリシーズ」は、ギリシア神話の英雄「オデュッセウス」のラテン語形「ウリュッセウス」から来ており、軍人にふさわしいファーストネームともいえなくもないので、その辺が気に入ったのかもしれません……つか、そういうことにしておきましょう。

 

酒を飲みすぎて軍を辞めるって……(´・ω・`)

士官学校での成績は良くなかったようですが、ユリシーズは無事に軍属となって米墨戦争に参加。
いくつかの局所戦で戦功を挙げて昇進したものの、32歳のときに大量飲酒で軍を辞めるというワケワカメな行動をしています。

この時点で妻子がいたというのに、一体何をしているのでしょう(´・ω・`)

辞職後は農場経営や不動産業をした後、父親の店をしばらく手伝っていたようなので、生活が危うくなったことはなさそうです。

1861年に南北戦争が始まると、緒戦であるサムター要塞陥落の十日後にユリシーズも志願兵を連れて、北軍の陣地に姿を表しました。
そして、ハンニバル&セント・ジョセフ鉄道の防衛のため、ミズーリ州に派遣されます。

ミズーリ州はちょうど南部と北部の境目に位置しており、このときはまだ北軍と南軍のどちらに加わるか決めていませんでした。当時の州知事であるクレイボーン・ジャクソン知事が個人的に南部に同情していたことも大きく影響したと思われます。

ジャクソン知事は武装中立を宣言し、どちらの軍が来ても攻撃することを選びました。
ユリシーズ率いる志願兵たちは、そこに殴り込みをかけた形になります。

ジャクソン知事を罷免してミズーリ州を手に入れたものの、州内の南軍派の反感を買い、しばらく手間取ることにもなりました。ただ、概ね目的は達成されております。

 

リンカーンの目に留まり東部戦線司令官

ユリシーズは引き続き志願兵の指揮を任され、ミズーリ周辺で連戦することになります。

南軍の奇襲を撃退するなどの功績を挙げましたが、それだけに嫉妬も買いました。
上官から「お前は酒を飲みすぎるからダメ」とイチャモンをつけられて、一度クビにされたこともあります。

結局「指揮能力>>>飲酒癖」と判断されて呼び戻されています。
人は、どこで恨みや妬みを買うかわからないとはいえ、戦時中に人の足を引っ張る方向に意識が向くとは、ずいぶん余裕があったものです。

ユリシーズは南軍の東西分断を成功させたことで、北軍の大将であるリンカーン大統領の目に留まり、東部戦線の総司令官に任命されました。

人口と工業力をフル活用した物量作戦・消耗戦を仕掛け、最終的にアポマトックス・コートハウスの戦いで南軍を降伏させることに成功。
こうして、ユリシーズは英雄視されるようになっていきました。

そしてアメリカ大統領になったのも、この「英雄」という肩書が大きくものをいいました。
戦後、共和党全国大会で満場一致による大統領候補となり、大統領選挙でも53%弱の得票を得たのです。

 

大統領を二期務めたあとは世界旅行で、日本にも

しかし、いざ政権が始まるとスキャンダルだらけで苦労を重ねました。

特に、南部の再建やインディアン政策では失敗続きで、支持が急落。
インディアンに対しては比較的和平主義だったとされていますが、従わない部族は絶滅させる姿勢を取ったあたり、どこが和平派なのかよくわかりません。当社比ってやつですかね。

【参考記事】リンカーン

また、1872年に岩倉使節団が会ったアメリカ大統領もユリシーズです。
キリスト教禁教に強く反対し、琉球の帰属についても口を出したとか。

岩倉使節団の頃の木戸孝允(左)。ほかは左から山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)/wikipediaより引用

なんとか大統領を二期務めた後は、1877年から二年間かけて世界中を旅行しています。
日本にも1879年にやって来ていました。

ユリシーズは、アメリカ大統領経験者で初めて日本に来た人でもあります。

浜離宮で明治天皇に謁見したり、増上寺に松・上野公園に檜を植えたり、あちこちを巡ったそうで。

旅から帰って1884年から、人に勧められて回想録を執筆しています。
既に咽頭がんになっており、回想録を書き終えたのは亡くなる数日前だったため、夢の印税生活とはなりませんでした。

この回想録はベストセラーになったおかげで、遺された妻子は充分な収入を得ることができたそうです。

ユリシーズの生涯は、英雄というには少々地味というか、大きな起伏がない気もします。

しかし、「自ら名乗り出た仕事をやりとげ、周囲からも信頼されて組織のトップになり、妻子に生活の糧を遺した」と見ると、「理想の人生」といえなくもない……ですかね。

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長月 七紀・記

【参考】
ユリシーズ・グラント/Wikipedia

 



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