壺齋散人世の中を語る

日本の今の政治を批判的に語るとともに世界情勢に目を配る

安倍首相の肝いりで任命されたNHK経営委員の一人である某氏が、東京都知事選に立候補した某極右候補の応援演説の中で、対立候補を「人間のくず」と罵倒する一方、「南京大虐殺はなかった」と主張し、また、原爆投下と東京大空襲を大虐殺と位置付け、東京裁判は「これをごまかすための裁判だった」と主張したことで、大きな波紋を呼んでいる。

まず、国会で取り上げられ問題になったが、野党委員の追及は、対立候補を人間の屑と言うのは失敬じゃないかといったたぐいの低次元のレベルに止まった。一方海外からは予想されたとおり厳しい反応が返ってきたが、なかでもアメリカからの反応が厳しかった。アメリカは、南京大虐殺に関しては、「責任ある立場の人物は、地域の緊張をさらに悪化させるような発言を控えるよう望む」と遠回しの言い方をしたが、アメリカの大虐殺や東京裁判に関する主張については「非常識だ」として露骨に不快感を示した。

日本人が「南京大虐殺はなかった」というのは、ドイツ人が「ホロコーストや強制収容所はなかった」というのと同じようなものとして受け取られる。実際ドイツのネオナチはいまでもホロコーストを否定しているわけだが、それは表向きは非合法な言動として位置付けられている。一方、日本人が南京大虐殺はなかったといっても、表向きは何らとがめられることがない。実際安倍政権も、それが個人の意見として言われる限りは、言論の自由の範囲内のことだと答弁している。しかし、民間の右翼がそういうのならともかく、重要な影響力を持つ公的立場の人がそういうのは、非常にまずい。まして政府がそれを見逃す態度を取るのは異常にさえ見える。

原爆投下と東京大空襲が大虐殺だったことは明らかだ。なにしろ非戦闘員である何十万人もの日本人を無差別に殺害したわけだから、これを大虐殺といわずして何を大虐殺と言ったらよいのか。数の上ではドイツのホロコーストには及ばないかもしれないが、その非人間的な残虐性については、劣るものではない。

東京裁判にしても、戦勝国による敗戦国の一方的な断罪としての側面をもっていることは否定できない。戦争というものは、お互いさまなのであって、負けた方が一方的に悪いということにはならない。だから東京裁判には正義に欠けたところがあるとは、かねて学者の間で指摘されていたところだ。

しかしだからといって、日本がそれを全面的に否定できるということにはならない。何故なら、日本は戦争に負けたからであって、しかも無条件降伏という形をとったからである。ということは、勝者による裁きを甘んじて受け入れると宣言して降伏したわけだ。その結果が東京裁判になったわけである。それを今になって、東京裁判の結果は受け入れられないから破棄すべしだというのは、理屈上は通らない。それを通そうとしたら、もう一度当時の連合国と戦争をやり直して、歴史の裁きをリセットしなければならないだろう。

こういう微妙な問題は、右翼の民間人がプロパガンダとしていうのならまだしも、公的な立場の人が政治的発言としていうべきことではない。(なお、ひとつわからぬのは、安倍さんは某氏の持論を知っていて登用したのだろうかという点である。もしそうなら、安倍さんが日頃強調している日米同盟重視という言辞は、眉に唾して聞かねばならぬことになる)

南京大虐殺
東京裁判

central-africa
写真(AFPから)は、中央アフリカの首都バンギで偶然撮影されたリンチの映像。反政府勢力セレカの戦闘員と断定された男性が、政府軍の兵士たちによって捕えられ、リンチされているところだ。撮影者によると、犠牲者は間もなく死亡したという。

こういう映像がショッキングに映るのは、人間が自分の肉体の力を行使して暴力を振るっているからだ。こうした暴力は、極めて人間的であるために、かえって残忍さをあぶりだす。

中央アフリカでは、キリスト教徒主体の政府軍とイスラム教徒主体の反政府勢力セレカとの間で、1年以上も内乱の状態が続き、国民は相互に憎しみ合っている。アサドのシリアに比べるとあまり目立たないが、アフリカではこのほか南スーダンなどでも民族間の殺し合いが蔓延している。

21世紀になっても、相互に憎しみ合い、殺し合うことをやめない人間たちが絶えない。おぞましいことだ。

アフリカの政治

先日、教育委員会を首長の諮問機関に格下げする案を自民党が出したところ、教育への政治介入の拡大を憂慮した公明党が難色を示したために、自民党は新たに、代表教育委員なるアイデアを出してきた。これは、執行機関としての教育委員会の位置づけは従来のままで、教育委員長と教育長を一体化させた代表教育委員なるもの設置しようというものだ。こうすれば、教育委員会の自主性は保証されつつも、教育行政への知事の関与も強化され、教育委員会の責任ある運用が期待できる、と自民党は説明しているようだが、果してそうか。

たしかに教育委員会は執行機関としての位置づけを持ち続けるので、自主性が補償されたように見える。だが、それは仮象というものだ。何故なら、代表教育委員は首長によって任免される点では、実質的にも制度的にも完全に首長の手下になるわけで、その代表教育委員によって運営される教育委員会は、実質的にも制度的にも首長による執行機関の一つに過ぎなくなるわけである。現在の制度では、教育委員会のトップである教育委員長は、建前上は首長から独立した存在である。そのトップを首長の任免による手下がつとめるようになるわけであるから、これは実質的には首長の下部機関への格下げと言ってもよい。

今の制度では、教育委員長は教育委員の互選によって選出され、その教育委員は、都道府県の場合には文科省の、市町村の場合には都道府県教育委員会のおすみつきを得たうえで、なおかつ議会の同意を得て首長が任命することになっている。形式的には、教育委員会に一定の独立性が補償されているわけである。それが、代表教育委員が教育委員会を取り締まるようになれば、実質的にも形式的にも、教育委員会の独立性は消滅すると考えられる。

教育委員会

国会の質疑で野党議員から自身の憲法観について聞かれた安倍首相が、「考え方の一つとして、いわば国家権力をしばるものだという考え方がある」として立憲主義の考え方に触れたうえで、「しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流の考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないか」と述べたそうだ。

これは、立憲主義が絶対王政時代に形成された時代遅れの考え方であって、いわば過去の遺物だと言っているのに等しい。しかし、そうした憲法観はいまの国際社会の中で主流の考え方なのか。決してそうではあるまい。立憲主義は、民主主義及び基本的人権の尊重と並んで、いまでも欧米を中心とした国際社会の主流の考え方であり続けている。それがごく普通の憲法観だ。だから、安倍首相はきわめて特異な憲法観を持っているといって間違いない。

安倍首相が望ましい憲法のあり方だと考えているのは、国が前面にたって国民に目標を示し、いわば上から国民を誘導していくようなあり方のことらしい。国民が権力をしばるのではなく、権力が国民を善導する。これを言い換えれば、自由で民主的な社会ではなく、権威的で全体主義的な社会ということになろうか。

安倍首相が全体主義的な政治思想を抱いているらしいことは、これまで言動の端々から伺われてきたところだが、国会の場でこのようにあからさまにいったことはいままでなかった。

安倍首相は、いまのところ自分の権力の基盤が盤石だと解釈して、慢心しているのではないか。このように正面から立憲主義を否定するようでは、この次は民主主義の原理の否定に踏み込むのも時間の問題だろう。安倍首相がそういう姿勢で憲法改正に乗り出したらどんなことになるか。すくなくとも民主主義を標榜している国との間で、健全な関係を築いていけないことは明らかだ。

立憲主義

mous

理化学研究所のスタッフ(小保方晴子女史ら)が作成に成功した万能細胞「STAP細胞」には、iPS細胞と比較してどんなメリットがあるのか。まず非常に効率よく作ることが出来ること、これはなんといっても決定的メリットだ。その上でiPS細胞と違ってガン化する恐れがないこと、これも非常にすばらしいメリットだ。安全性が高く、しかも容易に作成できるとなれば、今後の再生医学に計り知れない推進力をもたらすだろう。

だが今のところは、生後間もない段階のマウスからしか作成されておらず、人間の細胞から作成可能かどうかは未知数だ。これまでの研究を手掛かりに、人間についても作成可能になれる日が期待される。

だが、かりに人間の細胞から作成可能になったとして、ひとつ問題が残る。クローン人間が簡単に作れてしまうという問題だ。すでにマウスの実験によって、母体となった個体のコピーが作られている(STAP細胞を受精卵に入れて子宮に戻すことによって)。

化学の進歩は、それに付随して人間に倫理的な問題をつきつける、というわけだ。(写真は受精卵にSTAP細胞を注入されて成長したマウスの胎児「小保方女史撮影」:NATUREから)

万能細胞

安倍政権が教育委員会制度の改革に乗り出した。報道等によれば、現行法律上執行機関として位置付けられている教育委員会を首長の(審議・勧告のための)付属機関とし、現在は教育委員会によって任免されている教育長を首長による任命に切り替え、教育行政に首長の意向を直接反映できるようにする、ということらしい。

趣旨を表面的に受けとると、現行の教育委員会は、首長からの独立性が高く、選挙で選ばれた首長の意向が反映されない実態があり、また教育行政がとかく無責任に陥りやすい実態もあるから、首長の意向が反映されるような仕組みに改め、それによって教育行政の責任能力を高めたい、というように聞こえる。だが、果してそうか。

現行の教育委員会の委員はすべて首長によって任免されている。よって、首長とは異なった価値観を持った人が教育委員になる可能性は低い。教育長にしても、建前上は教育委員会が任免することになっているが、実体としては、役所の人事の一環として首長サイドで任免しているのが普通だ。したがって、教育委員会の自主性なるものは、ほとんどがないに等しいというのが実態だ。それをなぜ、ことさらに教育委員会の自主性をあげつらい、首長の権限を強化する必要があるのか。

もうひとつの理由、現行の教育委員会のあり方が、教育行政を無責任にしている原因となっているという点についても、わからぬことが多い。たしかに現行の教育委員会は、月に2度程度(それも短時間)開催されるだけで、その実態は行政(教育部局)からの報告にお墨付きを与えるだけのことが殆どだ。しかし、だからといって、それを無責任と決めつけるのはどういうわけか。無責任になりがちなのは、教育委員会が中途半端な行政資源(予算編成権等々)しか持たされていないためではないのか。実際現行の教育行政においても、予算の編成始め教育行政上の方針は首長サイドで決められているのが実態で、教育委員会に自主性があるとは到底言えない状態である。

このように、人事面でも運営面でも、教育行政に対する首長の意向は、現行法下でも十分に貫徹されているわけである(大阪のケースを見ればわかるように)。そこをなぜ、ことさらに首長の権限強化にこだわる必要があるのか。いまひとつ納得できない。

そもそも教育委員会制度は、民主主義教育の土台をなすものとして、アメリカの教育委員会制度を日本の土壌に植え付けたものだった。当初は、教育委員は公選制だったが、すぐに首長による任免性に切り替えられた。その時点で、アメリカの教育委員会制度とは異なる道をたどることが予想されたわけだが、果してそのとおり、教育委員会制度は形式的な扱われ方をされるようになり、行政側(文部省も含めて)による教育行政のコントロールが貫かれてきた。その意味で、現在の教育委員会でも十分に骨抜きになっているわけだが、法律上も骨を抜いてさっぱりさせてやろう、というのが安倍政権の本音なのだろうか。

教育委員会

開会したばかりの国会の代表質問で、民主党の海江田代表がNHK籾井新会長の「慰安婦」を巡る「失言」について安倍首相の考えを問いただしたところ、安倍首相は「政府としてコメントすべきではない」と答え、これについて自分が問題視することはないとの考えを示したうえで、「新会長をはじめ、NHKの皆さんはいかなる政治的圧力にも屈することなく、中立、公平な放送を続けてほしい」と述べたそうだ。

これを伝えたメディアの多くは、安倍首相がNHKの政治的な中立性を重んじる発言をしたなどと論評しているが、筆者にはどうも、そのようには聞こえない。

安倍首相がここで「政治的圧力」といっているのは、籾井氏の発言を不適当だと批判している(海江田代表を含めた)連中の言い分のことであって、「中立、公平」というのは、安倍首相が納得できるような姿勢のことを意味している、どうもそんなふうにしか聞こえない。安倍さんがこのようにいったのは、NHKの新会長は世間の雑音を気にしないで(つまり批判を意に介しないで)、自分で言ったことにもっと誇りを持てということらしい、そんな風に聞こえる。

ここまでいわれても、民主党の海江田代表は、一言も返すことがなかったという。

NHKについて

NHKの籾井会長が就任会見で慰安婦問題に触れ、「当時の戦争地域には大体つきものだったと思う。(問題は)日韓基本条約で国際的に解決している。それをなぜ蒸し返されるのか」と発言したことについて、本人は適切ではなかったと反省しているらしいが、安倍政権では必ずしもそうは考えていないようだ。サンケイによると、菅官房長官は記者会見の席上、「会長が個人として発言したと承知している。その後『取り消す』と言っており、問題ない」と述べ、国会審議への影響も「全くない」と強調したそうだ。

公の席上で発言したことを、個人として発言したとするとらえ方もわからないが、その後取り消したのだから問題ないというのは、もっとわからない。要するに、菅官房長官は、籾井氏の発言の持つ意義を全く問題視していないということだろう。NHKの経営委員の中でも、問題視する意見が出ているというのに、つまり常識的には、籾井氏の発言はかなり「まずい」というのが普通の受け止め方だと思えるのに、菅官房長官はそれを全く問題がないといっているわけである。

問題がないというのは、籾井氏のこの見解が安倍政権の本音に一致するということを意味するのか。われわれの本音に一致するから、あえて問題にはしない、ということなのか。もしそうなら、安倍政権は本音と建前をゴッチャにしている、といわれても致し方があるまい。安倍政権は建前の部分では、この問題に関する従来の政府見解を引き継ぐといっているわけだから、かりにそれとは違う考え方を本音として持っていても、表向きは「慰安婦」問題について反省する姿勢を見せるのが外交上の礼儀というべきだろう。

NHKについて

Protests-in-Ukraine
ウクライナで二か月前に始まったデモ騒ぎがだんだんエスカレートして、ついには死者を出す騒ぎにまで発展している。このデモ騒ぎは、ヤヌコーヴィチ大統領がEUとの自由貿易交渉を取りやめて、ロシアとの関係強化に舵を切り替えたことに、西欧派の市民が反発して始まったわけだが、最近は、ヤヌコーヴィチ政権がデモを弾圧できる法律を制定したりして、露骨な強圧姿勢を見せてきたことで、一層反対派を煽り立てたということらしい。

その反対派だが、一枚岩ではなく、左から右まで色々な勢力の寄せ集めといったものだ。唯一共通するのは、ロシアに対する反感ということらしい。その反感が西欧寄りの姿勢につながったり、民族独立の強調につながったりと、拡散的な動きを見せており、一致団結した動きと言うには程遠い。

ヤヌコーヴィチの方も、磐石な政権基盤とはいえないようで、力で反対派を蹴散らす自信はないようだ。そこで、首相職や副首相職を反対派のリーダーに与えるなどと妥協をはかる姿勢を見せているが、反対派の方でも、ヤヌコーヴィチとの妥協をはかるための基盤に欠けている。つまりバラバラで、全体をまとめられるリーダーが不在なのだ。

こんなわけで、ウクライナには、政権側にも反政権側にも、事態を収拾できるに足る基盤が欠けている。そこがこの騒ぎの行方を不透明なものにしている、といえそうだ。(写真は火炎瓶を投げるデモ参加者:EPAから)

ウクライナについて

NHKの新会長に就任したばかりの籾井勝人氏が、就任記者会見の席上「従軍慰安婦問題」に触れ、「戦時だからいいとか悪いとか言うつもりは毛頭ないが、このへんの問題はどこにもあった」という発言をしたそうだ。あたかも、戦時下の日本軍による従軍慰安婦制度を正当化するような内容で、その点では先日国際社会からも厳しい批判を浴びて、急速に政治力を失った某政党の代表と同じ穴のムジナというしかない。

驚くべきなのは、これが一政党の代表とか、一市井人の口から出たことではなく、かりにも公共放送であるNHKのトップの口から出たということだ。本人は、安倍首相にNHK会長になるよう取り計らってもらったことに恩義を感じて、安倍首相にゴマをすったつもりなのかしれぬが、NHK会長が気を使うべき相手は、安倍首相ではなく国民であるということを忘れてはいけない。こんな不見識な男がNHKの会長に収まり続けるようでは、今後のNHKに対して重大な不信を抱かざるを得ない。

それでなくとも最近のNHKは、安倍政権を意識しすぎているのかどうか、政権に対して当たり障りのない事ばかり言っている。ニュースウォッチ9なども、安倍首相のいうことをそのまま垂れ流しにしているだけで、すこしもジャーナリスティックな批判精神が窺えない。そんなのはニュースではなく、政権の広報番組といったほうがよい。また、来年の大河ドラマには、吉田松陰の妹をヒロインにする予定だと聞くが、これも長州人たる安倍首相におべっか使いをしているのがミエミエだ。

こんな調子では、NHKは安倍政権の広報塔に成り下がるだろう。そんなもののために、受信料を支払うのはゴメンだ。

NHKについて

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