大正~昭和初期の詩人萩原朔太郎の詩に「」という詩があります。中学生の時、国語の教科書にのっていたのをバラバラ見てて読んだのが最初でした。

 

 初めて読んだ時に、ガツンと一撃を食らいました。何に衝撃を受けたのか全くわかりませんでした。気持ち悪かったのか、感動しているのかどうかさえよくわからず、とにかく、心の水面に何かを放り込まれてザワザワしていたのをハッキリと覚えています。

 

 引用してみます。↓
詩集「月に吠える」からです。



光る地面に竹が生え
青竹が生え
下には竹の根が生え
根がしだいにほそらみ
根の先より繊毛が生え
かすかにけぶる繊毛が生え
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え
地上にするどく竹が生え
まっしぐらに竹が生え
凍れる節節りんりんと
青空のもとに竹が生え
竹 竹 竹が生え。

 

 この体験があるまでは、私は子供心に"詩"というものをバカにしていたように思います。

普通に言った方がちゃんと伝わるのに~なんでわざわざカッコつけて持って回った言い方なんかするんだ?

というような気分だったと思います。

 

 けれども、この体験をして、詩という形式でないと伝わらないものがあるのを知ったのです。そうです。"言葉の意味"では指し示すことが出来ない感覚を、"言葉の形式や音とイメージの響き"で伝えようとする詩の方法の存在意義を理解したのです。

 

 詩で作者が本当に伝えたかったことなのかどうかなど、わかるはずなんかありません。けれども、確かに伝わったという確信が沸き起こるのです。

 

 

 この時の感触は忘れ難く、何なのだろうとその後、折りにふれ考えました。二十歳くらいのころは、"竹"が人間のメタファーで、

人間色々苦労もあるけど、がんばって伸びていくんだよ

くらいの解釈をしていました。でも、芯から納得はしてなかったです。最初に受けた衝撃と比較して、あまりに軽い説明のように感じました。何より詩にただよう不気味な妖気にそぐわないように感じていました。

 

 実際に同じ詩集に並べて乗せられている同名の詩の「」を読むと、そんな単純な人間讃歌ではないのがわかります。

 



ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろがり、
するどき青きもの地面に生え。


こちらの「」では、竹のまっすぐな強さを打ち消すように"涙をたらして懺悔する"竹が印象に残ります。

 

 

 

 鍼灸の勉強をはじめてから、これは、

"いきもの"の生のメタファー

ではないかと思うようになりました。他の"いきもの"を食べ栄養にしながら、理由もなく生きていく。その状態を当たり前としながらも上に向かって生きていく。そして土へ帰っていくことを当たり前とする。不気味さも弱さも強さも渾然一体となって混沌と存在する。

 

 

 人間の中にも、この"いきもの"は居るように思います。「からだ」です。「からだ」は私達が思っているよりずっと弱かったり、反対にびっくりするほど強かったりします。そして、時に得体のしれない不気味な顔ものぞかせます。

 

 「からだ」はメタファーに乗って現れます。メタファーには色や匂い、質感や感触の肌あいを立体的に差し出します。形式的な知識をバラバラに積み上げるだけでは出てきてくれません。

 

 そういった意味において詩は「からだ」の最も住みやすいところなのかもしれません。

 

 

 地面の底の病気の顔

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人に顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

 逆にこんな暗い詩の中に「からだ」の逞しさが覗いているように思えます。

 

 

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