現在の私達は、

人間は機械である
とか
痛みは神経への刺激
とか
痛みは一連の化学反応

とか言っても、それなりに納得されてしまうのが普通だろうと思われます。私も、特にこの意見に異存があるわけではありません。



身体を機械
と見なすことはそれなりにメリットがあります。過去の医学の歴史を振り返ると、そのことによって多くの成果をあげてきたことがわかります。西洋医学の手術等の多くが時計等の機械修理のアナロジーから借りてきただろうことは容易に想像がつきます。


 東洋医学の、【流れる「からだ」】だって、気血を物質やエネルギーのようなものだと割り切ってしまえば、人間機械論の一亜種になってしまいます。ツボの名前には、泉、谿、井、谷、海といった水の流れや地理をイメージさせる感じが多く使われています。河川土木の技術のイメージの転用によって気血を操ると考えているのであれば、人間を水の流れで動く機械と同じようなものというふうに考えたと言えると思います。そして、このイメージの転用は実際の成果を上げてきたと言えるのだと思います。



 けれども、このような身体を機械とみなす考えは、「生活の価値」が無視されがちになってしまいます。

健康を願うのは
何のためなのか?

痛みに耐えて
生きる意味はあるのか?


と言ったことを考える糸口を機械論は持たないのです。西洋医学であれ、東洋医学であれ、何か仕組み的なものを想定する限り"意味"は外部からやってきてしまうのです。ほかでもない"この私"にとっての意味はごっそりと抜け落ちてしまうのです。


 もし、痛みや健康の"この私にとっての意味"を取り戻したいのであれば、意識の水面そのものへに立ち返る必要があります。意識の水面こそが、"意味"や"物語り"を紡ぎだす所です。そこに現れる「からだ」とのやり取りを通じて、やっと"私自身"にとっての意味を紡いでいくことが出来るのだと思います。





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