P84-104
「ファウスト」の中でも有名なシーンがある。
それは、ファウストが聖書の原文をドイツ語に訳すシーンである。
味わい深い文章なので、書き抜いてみる。
「(一巻の書を開いて翻訳にとり掛る)
こう書いてある、『太初(はじめ)に言葉ありき。』
もうここでおれは閊(つか)える。誰かおれを助けて先へ進ませてはくれぬか。
言葉というものを、おれはそう高く尊重することはできぬ。
おれが正しく霊の光に照らされているなら、これと違った風に訳さなくてはなるまい。
こう書いてみる、『太初(はじめ)に意味(こころ)ありき。』
軽率に筆をすべらせぬよう、第一句を慎重に考えなければならぬ。
一切のものを創り成すのは、はたして意味(こころ)であろうか。
こう書いてあるべきだ、『太初(はじめ)に力ありき。』
ところが、おれがこう書き記しているうちに、早くもこれでは物足りないと警告するものがある。
霊の助けだ。おれは咄嗟(とっさ)に思いついて、確信をもってこう書く、『太初(はじめ)に業(わざ)ありき。』」(P86)
最後にファウストが確信を持って書いた「業(わざ)」というものは、日常語で言えば、行為というほどの意味だそうである。
この聖書の翻訳の背景にある知識をまるで持たないので、全文書き抜いてはみたものの、これがどれほど深い文章なのかというのは、実はよくわからない。しかし、哲学とか、宗教っていうのは、葛藤の中にのみ答えがあるような気がしている。
貴く美しく輝いていると自分で認めている聖書をよりどころとして、さらに深い所にまで手を伸ばそうという精神闘争の姿がそこには見えるのではないだろうか。
言葉や、意味(こころ)や、縁に触れて発揮される力の中に真実があるのではない。
行為の中にこそ真実があるのではないか。
これがファウストの信念であり、出発だったのだろう。