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従軍慰安婦を名乗る嘘つきババア
その一人に衝撃の証言の変遷をしている輩が存在する
奴等は私たちの証言こそが証拠だと言い張るが、そんな変遷する証言が証拠となるはずが到底ないのである
そもそも変遷を続ける証言の信用性というのはあるのだろうか
そこが大きな問題であると言える
証言には証拠を示す資料などが必要である
その証言を示す資料は皆無
しかし、奴等の証言を覆す資料は存在する
どちらの信用性が高いのか
それは明らかなのだが、日本の信用性を貶める存在があるようだ
だが、衝撃の証言の変遷を纏めてみよう
そして、我々は言い張らなければならない
奴等は嘘ばかり言っているということを・・・
大きなものを述べると、
証言については
「国民服を来た日本人の男から、ワンピースと革靴をもらってうれしくてついて行った」
と話していた内容が
「日本の軍服を着た男らが家にやってきて、男から何かとがったものを背中に突きつけられ船に乗せられて行った」
と軍による強制連行を主張する内容に変遷しているのだ
さて、この変遷
「1944年夏のある日、酒屋をやっていた友達のお母さんが「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。
それから何日かたったある日の明け方、キムプンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。~(中略)~行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。~(中略)~それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。」
と最初に述べていたのです
ここから大きく嘘つきババアの証言は変遷します
まず、
1944年秋貧乏な様子におばさんから働けと勧められ、
「軍服みたいな服を着た男」(国民服に戦闘帽の男の日本人)
に服と靴で釣られて働けるものとついて行った。大連から船に乗った
1945年新暦の正月、爆撃下の船上で強姦される
台湾の新竹に到着したが股に腫れ物ができて血がべったりついていて歩けない
嫌だと言うと慰安所の経営者に電話線のコード巻き付けられ拷問された
トシコという名で主に特攻隊の相手をした、その際に性病を移された
1945年8月朝鮮人の人が終戦だと教えてくれた
経営者はもう逃げていなかった
埠頭にある収容所に行った
麦が青い芽を出す頃家に帰った
となったのだ
その後、
14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた
拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた
さらに、その後
16歳の時に
「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強姦される。台湾では、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた」
まだ、変遷する
「15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間も慰安婦をさせられた」
次は、
「15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた」
まだまだ、変わる
「16歳のとき、台湾で特高隊員に口を塞がれて連れて行かれた」
・・・
まだまだあるぞ
「私は15歳の時に拉致された。まわりの女性は誰も売春婦のようにはお金をもらっていなかった」
次には、
「16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」
「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた」
である
そして、次々変わる証言が機会が変わる毎に続くのである
「15歳の時、両親のもとから連れ去られ、台湾の特攻隊の慰安所に送られた」「台湾の慰安所で、私は殴られたり、蹴られたりしました。『言うことを聞いたら、お父さんお母さんにまた会わせてやる』と言われ、されるがままになりました。ひどいことをされ、腹膜炎になりました。」
長くなるので取り敢えずここまで
こんな変遷する証言をどう信用すれば良いのか
信用にも値しない妄言である
真実でないから何度も証言が変わってしまう
このどこに信用できる証言と言えるのか
それが通常の考えに至るのではないだろうか
これだけの変遷から言えること
それは奴等が嘘つきババアだということだ
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