樋口真吉顕彰会が発足しました! | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

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先日1月13日に、四万十市で樋口真吉顕彰会が発足しました。

それを伝える記事からご案内いたします。

 

樋口真吉(1815~1870)についてご紹介します。

◆<略歴>

文化12年幡多郡中村(現四万十市中村小姓町)の郷士(足軽)の家に生まれる。
19歳で学問に志し遠近鶴鳴(とおちかかくめい)に学び、のち諸国を遊歴して剣術・槍術・砲術を修行。
23歳のとき筑後柳川(ちくごやながわ)大石神陰流(おおいししんかげりゅう)(大石進)に入門し、印可

(免許)受け帰郷後、中村に家塾を開き、門弟は1,000人に及ぶ。

幡多・香我美郡及び高知城下町奉行の下役を歴任。


土佐西部の勤王党の盟主として知られ、藩主の上京に扈重(こじゅう)

武市瑞山の下獄(げごく)後、勤王党の善後策協議には自重論を唱えた。

戊辰戦争に従軍、凱旋後留守居組に昇進。
明治3年大納言徳大寺家の公務人となったが同年6月14日、東京で病没。享年56歳。
墓は四万十市土生山(はぶやま)に現存し、島村速雄海軍元帥撰文による彰徳碑(しょうとくひ)が為松公園三の丸にある。

 

◆血液型がA型で几帳面な性格か?

勝手な私の推測ですが、彼は血液型がA型だったと思われる。

実に綿密に日記を書き残しているのです。

 

◆坂本龍馬と樋口真吉の接点が3つ残っている。

〇龍馬、16歳の時、父・八平(はちへい)に代わって藩命で四万十川(渡川)改修工事に従事(郷士島某(しまぼう)に同行、工事を監督)した。

真吉は36歳であった。彼は、当時中村で唯一の剣術道場主であり、龍馬に大石神陰流の稽古を勧めるとともに、諸藩情勢や外国の事情などを教えたとされる。
〔工事中、龍馬が昼寝をした松が四万十川(渡川)の右岸にあった、という伝承がある。〕

 

〇龍馬が脱藩した後に、九州から江戸に向かう途中、当時大坂に赴任していた真吉に出会ったという。その折に1両(円)を龍馬に与えたと日記に記載している。

当時龍馬は路銀が欠乏しており、この1両で江戸まで何とかたどり着いたということらしい。

 

〇暗殺1カ月前の龍馬の手紙

 

身の危険を感じた龍馬は、在京の友人望月清平(もちづきせいべい)に火急の手紙を出した。
「今いる近江屋が危ないので、樋口真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ。」(原本は坂本龍馬記念館が所蔵)
しかし、翌日から望月清平は、本藩〔高知〕へ出張のため忙しく、その願いは真吉には伝わらなかった。
「龍馬が最後に信頼した樋口真吉」
このとき、真吉に龍馬の必死の叫びが伝わっていれば歴史は変わっていたかもしれない。

 

◆ジョン万次郎に長崎で面談している真吉

今、地元に真吉が造ったとされる砲台跡が残っている。

剣術が強かったのみならず砲術も佐久間象山に学び、攘夷に備える下田砲台を造ったのも樋口真吉であった。

 

身分は足軽であったと言いながら、剣術に秀でて、無外流で師範格であったが、対外試合を禁ずるその流派に飽き足らず、九州に出向いて大石新陰流を学び、免許皆伝を得ている。

 

長崎にも数度に渡って遊学し、ジョン万次郎にも面談した記録がある。

このように進取の気性に優れ、土佐藩士としてもなかなかの働きをしている。

戊辰戦争にも参加し、無事明治維新を迎えたが、56歳で他界した。

もう少し明治の時代に生きてほしかった人物だった。

 

龍馬より20歳年長であるがゆえに、土佐勤皇党の動きにも大人の判断をして、暴発することはなかったのではないか。

 

樋口家の子孫の方々が、樋口真吉玄孫会を作られたらしい。

新しい資料などが見つかるかもしれない。

 

今回の顕彰会には60余名が参加してくれたと聞いている。

今後樋口真吉について、より詳しく顕彰していきたい。