2018年3月24日土曜日

必要なのは作品を忌み嫌うことじゃない

『幸色のワンルーム』という作品がドラマ化することで賛否両論が起きている。
誘拐された少女が誘拐犯と幸せになるというストーリーの漫画が原作。
「世にはこんなに悲しい誘拐事件が起きているのに軽率にドラマ化していいのか?」「現実に誘拐された女子に対する配慮がなっていないのでは?」「”誘拐されても大丈夫”という間違った認識を生むのでは?」と懸念されているのだ。

しかし、誘拐された少女のストーリーはそんなに問題だろうか。
「誰かに連れ去ってほしい」は割と女子なら誰でも抱きがちな願望で、昔話の王子様だったら違和感も湧かないだろう。
それを現代風に落とし込んだら、こんな形になってもおかしくない。
作品を見て「じゃあ誘拐してもいいんだ!」なんて思うなら
とっくに殺人が起きる作品を見て「じゃあ殺してもいいんだ!」って思ってるはずだ。

大事なのは作品の内容ではなく、
「周りに正しいことを教えてくれる人がいるかどうか」なのだ。

「殺してもいい」と思わないのは、共通認識である「殺してはいけない」を教えられるから。
でも、「誘拐」なら?「レイプ」なら?
教わらないものほど、社会で蓋をされるものほど、それぞれが勝手に判断して勘違いする人がでてくるから、「作品の存在が悪」だと思われてしまう。

最近AV男優やAV女優が一生懸命「AVはフィクションですよ、プロの技です、現実でマネできるものではありません」と啓発に勤しんでいるが、それだけAVをお手本にしてしまう男子が問題視されているから。
とはいえ、「他人のセックス」を学べる環境が他にない以上、お手本にしてしまうのは仕方のないことではないだろうか。
大事なのは「あれはフィクションで、実際は違う」と誰かが教えること。
それが親なのか先輩なのか先生なのか恋人なのか、誰かとコミュニケーションの中で学んでいくものなのではないだろうか。
それを教わらずに生きていくことは不幸だ。

だからわたしは作品が封じられるべきとは思わない。
「違うよ」「本当はこうしたほうがいいよ」ってもっと気軽に言える空気が作られていくべきだし、
「あ、違うんだ」「じゃあやめよう」って思える人間になるべきだし、
「作品はおもしろい」ってなるべきだと思う。

実現できない世界を描けるのがフィクションの作品であって、道徳の教科書じゃない。




よんうさこ

0 件のコメント:

コメントを投稿