僕は強迫性障害を折り返したときに思ったのが、
”不安を感じれてよかった〜。。。”
でした。
すごくホッとして、何年か振りに熟睡したのを覚えています。
僕はプライドがすごく高くて自意識過剰だったので、
他人に弱みやネガティヴなところを見せれずにいたし、
〈弱い自分は自分じゃない〉
と思い込んでいました。
そういう自分でいることは許されないと変な使命感に苛まれていましたね。
で、端折りますが
だからネガティヴな感情を感じれたことでそういったことから解放されました。
感じれば感じるほど解放されていきました。
例えば今、僕を大事にしてくれる、愛してくれるたくさんの人たちに囲まれていたとします。
正直僕は苦痛です。
それはとてもとても幸せな状況だと思います。
たくさんの人に大事にされることはとても嬉しいしとても幸せです。
だけどそんなに幸せな状況なのだから感謝しろよと言われても、
たくさんの人に囲まれたら僕の心は苦痛を感じます。
僕は人がたくさんいるところが小さい頃から苦手で、
今も人がたくさんいるような場所で食事することは苦痛なので、外食もほとんどしません。
例え大事にしてくれる人たちがそんなに気を遣わずに楽にしていればいいんだよと配慮してくれても、
僕の心と身体はそこを望みません。
世間的には友だちがたくさんいて、遊ぶときはみんなで遊び、
たくさんの目に触れることが素晴らしいとされ、
ワイワイとテンションが高いものの方が楽しいと思われています。
そうでない人は寂しい人だと…。
または、本人がそう思い込んでいる。
【僕は、僕が感じたように感じれたとき、本当の心からの幸せを感じました。】
何事もポジティブにいられなければ良いことが起こらないという、誰かから教わったかもわからない迷信を無意識に信じていました。
でもポジティブになればなるほど、
ポジティブに傾き過ぎたとき僕は、
幸せではなくなっていました。
ポジティブって何なんでしょう。
前にだけ進むことでしょうか。
感じてもいない感謝を叫ぶことでしょうか。
いつも笑顔でいることでしょうか。
楽しいってテンションが高いことなんでしょうか。
幸せって穏やかなことだけでしょうか。
ポジティブでなければ幸せにはなれないのでしょうか。
僕は不安なとき不安だと言いたかった。
僕は怖いとき怖いと言いたかった。
僕はムカついたときぶん殴ってやりたいと言いたかった。
僕は行きたくないところに行きたくなかった。
僕は会いたくない人に会いたくなかった。
僕は落ち込んだとき笑顔でなんかいたくなかった。
僕はもう歩きたくないと思ったとき立ち止まりたかった。
だから僕は、
それが心地よいものであろうが、
心地わるいものであろうが、
僕にとっての幸せは、
”感じたそのままを、そのまんま感じれることなんです。”
今も行きたくないところに行くこともあるし、会いたくない人に会うときもあります。
以前は行きたくもなかったのに来たかったかのように振る舞い、
会いたくもなかったのに会うのを楽しみにしてたかのように振る舞っていました。
そのように振る舞うのはそれが正解のときもあるのでそれはそれでOKだと思います。
問題はそのときの自分の内側です。
会いたくもないのに会いたかったかのように振る舞っても、
”心までそうである必要はありません。”
それに気づき、それが出来るようになったときには
パニック障害も強迫性障害も消えていました。
逆に思ってもいないことを言い続け、
感じたことを感じなかったこととし続け、
行きたくもないところに行き続けたら
僕は強迫観念が生まれると思うし、
抑え込んだ感情が限界にきてパニック発作が起きると思います。
強迫観念って、こう思わなくちゃいけないと思うところがはじまりだと思います。
それをつくっているのはまさしく自分です。
つくったのが自分なら、自分で壊せるはずです。
感じたままに感じることの何が悪いのでしょうか。
そのまんま感じたら何かになってしまうのでしょうか。
そのまんま感じなかったからどうにかなってしまったんではないでしょうか。
心の中はいつでも自由です。
身体が束縛されていても心の中は自由です。
あなたがどんな行動をとるかはあなた次第。
ただ、あなたの心の中はいつでも自由です。
どこにでも行けるし、何でも感じれる。
試しに1度そのままをそのまんま、してみませんか?